オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび645

会津人群像2022no.43より鶴賀イチ「会津藩校日新館」読む

 


会津藩の教育と言えば、大河ドラマ「八重のの桜」で紹介されていた「ならぬことはならぬものです」の什の掟が有名だ。6歳から9歳までが、什の組織による基礎教育期間で10歳から日新館入学となる。

学習内容が漢書素読と講釈中心は、時代背景からして合点がいくところですが、天文方では会津暦があり暦学の先端を学んでいた。会津には海がないが池の周囲が153mの水練場を備えていて、日本初のプールと言われている。学習内容ではないが、窮乏時に藩が費用を負担して昼食が提供されたことがある。これまた給食の始まりだろうか?

家老田中玄宰の「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の育成にあり」という進言からスタートした日新館であるが、会津・猪苗代・江戸・京都、さらには斗南や余市三浦半島防衛のために観音崎や三崎にも設置される。人が住むところに学校がなければならないのは自明の理ではあるけれど、それにしても並々ならぬ情熱を感じます。

ここに来て、ふと思うのは現在の教育状況や教員の置かれた環境。百年の計を語ったご家老が令和の現状を見たら、何を思うでしょうか?

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オヤジのあくび644

佐藤智恵「ハーバードでいちばん人気の国・日本」を斜め読みする。

 


ボクは本書で金剛組という世界最古の会社を知った。578年に聖徳太子が招聘した宮大工が創業したと言う。何と1446年も続いている!

株価の激しい値動きを眺めていると、その時代時代でニーズや成功のあり方は変化するものと思いがちだが、どっこい飛鳥の世から続いている企業があったのだ。

日本を代表する経営者の名前が、ハーバードで議論の対象になっていることが紹介されているが、会社経営とは少し離れた印象があるアベノミクスの話が登場する。全く予想外の死を迎えた安倍晋三さんの経済政策が歴史に名を刻むことになるのかもしれない。

東日本大震災から13年が経ち、いまだに原発事故から出た放射性廃棄物の処理については見通しが立っていない。けれど福島には事故の第一原発の他にもう一つ第二原発があり、第二原発の方は同じ状況に追い込まれながらも増田所長のリーダーシップによって最悪の事態を免れたことを、ボクも含めて日本人は意外に知らないのではなかろうか。センスメーキング。置かれた状況をいかに理解するかが問われた事例として、本書に登場する。そして所長の行動力以上に現場にいた作業員のチーム力が賞賛されている。

ハーバード生が憧れる日本独自の精神性や感性はどうやって育まれてきたのだろうか? ボクは日本でしか体験できない教育内容や環境の中にこそ。その秘密の一端が隠されている気がしています。

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オヤジのあくび643

村道雄「縄文の列島文化」を読む

 


今も昔も日本独自の文化がある。何と三万年も前に日本独自の石器が使われていた。刃部を研磨した石器でナイフのように動物を狩る際に用いたらしい。

ところで私たちが資料で学んだ竪穴式住居のイメージは屋根が茅でふかれている。しかし、それは先入観であって本書を読むと縄文時代の住居の屋根は土でふかれていたらしい。それなら火災にも強いだろう。研究者は知っていても一般の人は誤解したままのことは他にもありそうだ。

遺跡というと、まずは建物群や土器に注目するが、本書はまず松島湾宮戸島の調査を元に、季節ごとにどのような食べ物をどのようにして食べていたのかを、詳しく解説している。今のような暦こそないが、植物を観察することで季節を把握していたのだろう。また貝塚を詳しく調べることで縄文の食生活がわかるのだ。春にはフグを食べていたというが、何とフグの毒の処理の仕方は縄文の頃から知られていたのだ。

著者の視点は、海から山へ。縄文の里山へと向けられる。縄文人が植林していた木にクリがある。実を食べる他、建物の柱、焚き木として使っていた。さらにはエゴマやダイズも栽培され、川を遡上するサケを捕っていたのである。

飽食に明け暮れしている現代人の食生活からは粗食に見えるかもしれないが、自然からいただいたものを自然に返していくことで、縄文の食生活はサステナブルだったし、事実一万年続いているのであります。

さて続いて語られているのは、縄文時代の物流・交流について。三内丸山遺跡を見学した時にも遥か遠方で採れる黒曜石が、三内丸山で見つかることに、物流ネットワークが広範に渡っていたことに驚かされたものだ。採掘→加工生産という品物の流れを、工房と思われる遺跡を辿りながら、著者は物流ルートを想定していく。それにしてもずっと言われてきたように、流通方法は物々交換やプレゼントだったのだろうか? 商売や富の蓄積がなかった時代に、何が物の流れを生み出していたのか? 興味が尽きない。

最終章では、縄文人の葬送法が現代に至るまでどのように引き継がれているのかが書かれている。キーワードは山、土、石だろうか?

近年まで山全体を墓としてきた人々がいる。ボクの場合母方の祖先は山に葬られていたようだ。土葬については荼毘に付すという過程のあるなしに関わらず、結局は土に埋葬されている。日本人は墓石を建てることが多いが、石が神の依代であるという信仰が背景にあるのだろう。

縄文文化統一国家としての体裁を整えていく過程で、次第に地域ごとの多様性を失ってしまう。けれど一万年に及び続いてきた文化の流れは、きっとまだ私たちの生活の奥底に隠れている気がします。

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オヤジのあくび642

村井康彦「出雲と大和ー古代国家と原像をたずねて」を読む2

 


本書に吉備国桃太郎伝説が登場する。桃太郎は大和朝廷から派遣された吉備津彦命のことであり、鬼は吉備国で鉄生産に従事していた百済の人々だというのだ。何とかして吉備国の経済力を弱めたい朝廷側は実力行使に出たのかもしれない。この本には他にも丹波尾張など大和朝廷にとって目の上のたんこぶ的な豪族を如何にして支配下に収めていったのか、書かれている。

さて出雲国出雲大社の他に熊野大社という大きなお宮があります。筆者はそれを伊勢神宮の下宮と内宮の関係に例えています。しかるべき内宮造営の前段階として、下宮の役割を果たす熊野大社が必要だったと。出雲大社と言えば、高さ48mの空中神殿が存在したという伝説が残っています。今も巨大な社ですが、これは国譲りの時に大国主命がヤマト政権造営を約束させていたもので、実際の作業が遅々として進まなかったことから、斉明天皇の頃に「早よせんか」的なエピソードがあったと記紀に書かれています。

まぁ譲ってもらったら、あとはこちらのもの。その後ヤマト政権はどんどん中央集権化を進めていくのですから、出雲との過去の関係など構っちゃいられなかったのかもしれません。でも今でも、天皇陛下出雲大社の神殿に入れず、何か古代から続く出雲のプライドを感じます。

あとがきで、邪馬台国は出雲勢力による国で、神武天皇を祖とするヤマト王権とは関係がない。だからこそ古事記日本書紀邪馬台国卑弥呼の記述がないのだと筆者は言う。

本書は出雲系の祭神を現地踏査した記録でもあり、日本の神々に関心のある方にはお勧め  できる本です。

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オヤジのあくび641

村井康彦「出雲と大和ー古代国家と原像をたずねて」を読む1

 


奈良盆地三輪山という山があり、麓に大神神社がある。御神体が山そのものという古代の自然崇拝を受け継いでいる。ところが祀られている神様は大国主命なのです。なぜ出雲大社の神様が奈良盆地の真ん中に祀られているのか?

どうやら日本の統一過程で、初めてまとまった国造りに成功したのは、大国主命らしいのです。大国主命とは、あの因幡の白兎に登場する意地悪なお兄さんたちと好対照のやさしい神様です。本書は、その後どのようにヤマト王権へ移譲されていくか? を推論している。

著者は出雲国の名残を磐座と四方突出墓を頼りに訪ねていく。(四方突出墓とは四隅がヒトデのように延びた古墳でして私は本書で初めて知った)本拠地である出雲から丹波・北陸・信濃と、出雲の影響は日本海側からフォッサマグナ上まで広がり、大きな影響力があったことが想像できる。北陸には出雲と縁の深い高志国があった、読み方はコシ。やがて越の国と変化するのでしょう。

日本古代史最大の謎は「邪馬台国」。筆者はヤマト説を採り、九州北部には大陸との窓口を担っていた伊都国があったとする。所在以外の疑問は、邪馬台国ヤマト王権との関係で、本書では神武東征によって大和盆地にあった国が滅ぼされており、邪馬台国ヤマト王権は非連続であるとする。ここで注目しているのが邪馬台国を支えていた豪族が出雲出身であったということ。

総帥饒速日命は、神武軍と果敢に戦い邪馬台国を守ろうとした長髄彦を殺し、神武軍に恭順する。神話にいう国譲りとは、この件であると筆者は推論している。

 


明日の投稿に続きます。

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オヤジのあくび640

関裕二「縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける」を読む

 


一般に社会で学ぶ対象を「人・もの・こと」と言うけれど、その中でも歴史は、文書・記録を元にした過去を学ぶことだから、縄文を始め文字を持たなかった文化は、その様子を手繰り寄せることが難しい。

しかし「日本人はいつ頃どこからやって来たのか」という問いについては、ヒトゲノムの解析がヒントを与えてくれている。答えになってないが「北、西、南・・いろいろなところからやって来て、長い期間を経て混じり合った」ということになるだろうか? 

元々の文化に積み重なるように新しく移入された文化が取り入れられていく過程は、文字言語の輸入過程に似ている。元々土着の発音=やまとことばは訓読みとして残しつつ、輸入した中国の読み方や意味を取り入れていく。やがて書くのが億劫になると、ひらがなやカタカナという独自の文字を表音に使い始め、重層的だった言語が、さらに複雑になる。

三内丸山遺跡には、大きな集会が可能な住居跡が残されている。本書では「定住していた縄文人」に対して、稲作を始めた人々は組織的に戦いを始めることを知っていたから、稲作について慎重だったと述べ、強い王の発生を嫌っていたという説を紹介している。

やがて本書は、ヤマト王権の成立にまで筆を進めていき、彼らの王が祭祀を司る王であったことに、縄文文化の影響を指摘する。九州北部に鉄や富を蓄えていた豊かなクニがあり、強権的な王がいたと思われる。これに対抗したヤマト王権の始まりは、ゆるゆる連合の中からとりあえず代表を選ぼう的に、言い換えれば縄文集落的に始まったと筆者は推論している。滋賀・伊勢・吉備・・そして決定打的に出雲がヤマトをサポートしたことで九州北部に存在した強いクニを傘下に置くことができたという説なのです。

 

2024年春、日経平均株価がバブル期を超えて最高額を更新し四万円を超えたニュースや、人々が確定申告義務を果たしている時期に、国会は裏金問題でまだ紛糾している。どちらもある意味で富の象徴なのだろうけれど、縄文時代以来日本人が感じて来た豊かさとは別次元にあるような気がします。だからGDPが世界4位に落ちても、若者を中心に「それがどうかしたの?」という反応になる。

ボクはそれでいいと思う。この決して広くない、自然災害の多い土地で、日々心の平安を保っていくために大切なことを、縄文の昔から精神文化の中に息づいていることを探っていきたいと思います。

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オヤジのあくび639

椎名誠「漂流者は何を食べていたか」を読む

 


この本のネタは、生きて戻った人による漂流記。残念だが帰還を果たせなかった漂流者のことはわからない。それを生きて戻れたのは知恵や技術があったからだと、またはクルーのチームワークがよかったからだと決めつけてはいけないと思う。理由の大半は、やはり幸運だったのだと思う。遭難の理由が不運であるとほぼ同じ割合で。

椎名誠の特徴は、実体験に基づいた文章がデフォルメを軽薄体などと揶揄されながらも、体験と文章のギャップが大きく、その面白さが共感を呼んできたことでしょう。この本においても、漂流記の抜書き的な部分より実体験を踏まえて書いている(本書で言うとアリューシャン列島のアムトチカ取材の記録)箇所の方が、俄然生き生きして引き込まれる。

本書は、一話一話が波瀾万丈のサバイバル冒険物語であり、短編集として楽しみながら読むことをお勧めします。

どれもこれもワクワクドキドキなのですが、最後に収められている竹筏ヤム号による冒険漂流は、そもそも日本人はどこからやってきたのか? という問いと絡んでいます。ボクは、先日三内丸山遺跡を見学してその広大な交易範囲に驚いたのですが、原始的な船に乗って時には漂流しながら日本列島にやってきたのは、私たちのご先祖様の姿そのものなのかもしれません。

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