オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび394

青島広志「作曲家の発想術」を読む

 


青島広志作曲による演奏を初めて聴いたのは、母校横浜国立大学グリークラブによる「ギルガメシュ叙事詩」だった。なかなかすごい演奏で当時は後輩たちの演奏に感心したものだ。その後著者は教育音楽という雑誌の付録楽譜に輪唱曲を連載しており、楽譜オタクの私はよく眺めていた。

青島さんは、才能の赴くままにディズニーやグループサウンズの合唱編曲を精力的に行っていた時期があり、ディズニーの方は戸塚混声合唱団が第一回演奏会で歌っている。グループサウンズは合唱隊というアンサンブルで録音されたCDを持っている。これらの譜面から守備範囲は広いけれど、やはり青島さんはクラシック系の作曲家だなぁと感じてしまう。音がいい意味でも反対の意味でも、美しすぎると私は感じる。

だから、この本もクラシック音楽のメソッドを下敷きにした作曲家の本になっているし、ポピュラー音楽を志向している若者には一般教養編という位置付けになるだろう。

本書はp67〜p206まで「どのジャンルでどのような曲が書かれてきたのか?」を語っている。音楽史のお勉強のようであり、大作曲家たちがどのジャンルを得意として、それにはどのような資質が生かされているかを説き明かしている。その最後のジャンルとして舞曲が登場するが、ここがボクには面白かった。人類は絶えず音楽と共に踊ってきたのだ。やがてバレエという総合芸術に進化するけれど、もう少し前の例えばバッハの頃の様々な舞曲について、改めて聴いてみたくなった。音楽は初めにリズムありきスタートしたのだから。

本書は気取ることなくリアルに作曲家としての現実を、それは作曲家生活に対して憧れを抱いている人の夢を壊してしまうかもしれない。けれど、音楽室に肖像画が展示されている大作曲家の皆さんも実生活は青島氏と似たり寄ったりだったろう。偉人としての虚像が作品と共に本人から離脱してしまうのだ。

 


私は、出来るだけいろいろな本に触れたいという貧乏人根性から、過去数年内に読んだことがある本は避けているのだけど、実はこの本は2019年8月末に読んでいて2回目でした。おそらく私の関心のありかが動いていないのでしょう。

オヤジのあくび393

ショーペンハウアー「読書について」

 


私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ手を出さないのがコツである。

似たようなことは音楽にも当てはまる気がする。商業的に成功を収めたヒット曲のうち、10年後何曲が人々の記憶に残っているだろう。音楽の教科書にバッハ、モーツァルトベートーヴェンが顔を並べるのは、彼らの音楽が少なくとも200年以上人々の心を捉え続けたからだろう。ポピュラーでは、すでにビートルズの名曲がこの領域に入ろうとしている。

ショーペンハウアーは、名著古典は二度以上読み直しなさいと言っている。何度も読み返すことで理解が深まるのは仰せの通り! 読書は量をこなせばいいわけじゃない、結局質なのよ! と教えていただきました。なるほど、ありがたや。

オヤジのあくび392

ショーペンハウエアー「自分の頭で考える」を読む

 


「本を読むとは自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れこんでくる。・・・自分の頭で考える人にとってマイナスにしかならない。」いやはや、したり顔で読後感想を書き込んでいるボクにとっては背中に冷や汗のような警句です。人の言葉を引用して、あたかも自分自身でその思索の到達点に行ったかのように他人に権威をひけらかしている人、そんな人を批判しているようだ。

 


ショーペンハウエアー「著述と文体について」を読む

 


本を書くことでお金を稼げるようになったことが作家の堕落を招いたと言う。本当に優れた作品は無報酬で書かれた作品だと。生活の糧を得るために「書くために書く」というよくわからない自転車操業に陥っている物書きに向けた警句だろう。「あっ、このブログはそんなことはありませんよ」念のため。

話は文芸批評・評論に向かう。悪書を駆逐する本来の仕事に向かうことなく、著作家は結託して、互いの利益を守ることに終始していると嘆いているが、中でも匿名の評論批評についての鋭い見解は現在のSNSにおける誹謗中傷を思い起こさせる。

「できる限り偉大な知者のごとく思索し、しかも誰もが使う言葉で語れ。」と言う。その反対は、ありふれたがいねんを高尚な言葉で包み、ごくありきたりの思想を並外れた表現、わざとらしく気取った奇妙な言い回しにくるもうと努める。世に言う修辞法とは、自分の思いをより伝えやすくするためのスキルだと思っているのだけど、時として修辞のための修辞みたいな、皮を剥いていったら芯には何もなかったような文章に出くわすのは困ったものだ。

流し読みをするとブツブツ文句を垂れている老人のようなショーペンハウアーの文に、はっとさせられるフレーズがしばしば挟まっていることを見逃してはならないだろう。

オヤジのあくび391

音楽授業のキモ、それはリズム。

 


心臓が動いていない人はいない。私たちはいつも心臓の拍動を内に秘めている。内なる拍動から外に向けたリズムへ!

拍動は、バウンドするリズムなんだから、拍と拍の間に音楽がある。日本の宴会手拍子と西洋の指揮者が感じる拍は、音の入り込み方が違うけど、ある点から点の間に音楽が入り込んでくるのは同じ。

あとはテンポの確認が大切。ボクは子どもたちと速さを確認してから演奏したり歌ったりしている。

ここまでが基本で、あとは楽しいリズムが沢山ある。8ビートはもちろんサンバやビギンにシャッフル、いろいろなリズムにのって歌ったり演奏する体験をたくさん味合わせたい。

例えば「ドレミの歌」。それこそどんなリズムで歌っても楽しいじゃないですか!

そして身体がリズムにシンクロしてきたら、身体を揺する、飛び跳ねる、踊る、元の音楽が聴こえなくならない程度に盛り上がりましょうよ! 

そこに息が詰まりそうなコロナ禍下で、音楽学習の突破口が見出せそうな気がしています。

オヤジのあくび390

藤木幸夫「みなとのせがれ」を読む2

 


港の仕事が大きく変化する時がやって来た。コンテナ輸送のスタートであります。今までは重い貨物を人手をかけて運んでいたものが、巨大なクレーンがとって変わるのだから、労働者・会社経営者にとっては大事件だった。結果、港がどう変わったのかは、一目瞭然。渦中にあって板挟み状態にあった苦労が語られている。

どうしても自叙伝では、結果として実績が語られる。中国大連港の改革やFM横浜発足に著者が大きく関わっていた。さらにはロッテルダムのモデル学んだ港湾学校設立の話が続く。様々なエピソードを語りながら、読者は著者と周辺の人々の間合いがとても近いことに気づくだろう。年上はオヤジ、歳が近ければ兄弟なのだ。中にはヤクザの親分もいるけれど。懐中に飛び込み胸襟を開いて話し合えば通じ合えることを証明して来た人なのだ。

最後に著者の好きな言葉を書きつけておきたい。(正しく)知ることは愛すること。

オヤジのあくび389

藤木幸夫「みなとのせがれ」を読む1

 


話はファミリーヒストリー的に父である藤木孝太郎、さらには祖父や祖母の出自から始まる。横浜で活躍した人の多くが何かを求めてこの地にやって来たように、藤木さんのルーツも淡路島であり、福井県でありました。

港湾労働者、つまり沖仲仕がいての港なのですが、荒くれ者というか、あまりイメージがよくないわけです。男声合唱曲にシーシャンティという海の男の歌があるのだけど、What shall we do with the drunkn sailor? という国を跨いで海の男への偏見を煽るような歌もある。しかも飲む打つ買うに付け加えて反社会的な組織との関わりが噂される。それらをどう払拭し、真っ当な堅気の道を歩ませようと腐心したか、酒井信太郎という大物と藤木さんの父親との兄弟にも似た関係が語られる。そこまでが前編で全体の5分の2。

さて、ようやく主役登場。憲兵隊の本部が馬券売り場になった話や武相高校の火事を消しとめた話など出てくるが、凄いのは旋盤の作業で青酸カリを口に含む工程があったと言う。もちろん飲み込んだら即死である。未来ある若者にこんなことをさせていたのか! と思った。

戦後、神奈川県立工業高校と早稲田大学を経て、著者は父親同様港の仕事に就く。とにかく人手不足の時代であったが、北海道に働き手を探している時に、港湾労働者は皆入れ墨をしているのでは? とか予想外の偏見に驚く。どうやらヤクザ映画の舞台が横浜港で撮影セットまで提供していたことと関係があるらしい。一度染み付いたイメージを拭い去るのは大変だったと思います。

オヤジのあくび388

納富信留プラトン」を読む2

 


正しいとか、美しいとか、善いとか、現実とは違う次元で離れて存在する。それがプラトンの言うイデア。著者はそれは理想主義や彼岸主義とかではなく、プラトン哲学の現実そのものを見据える破壊力だと言う。イデアについては、有名な洞窟に閉じ込められた囚人の例え話が出てくるのだが、ボク的に言い換えれば、暗室でも光を求めて育つもやしのようにイデアを感じていたい。

ソクラテスプラトンも教育に情熱を注いだ。今日、知識技能偏重のマニュアル化された教育方法を是正しようとして、主体的に学ぶ力が重視されているが、そもそも何が人の心を揺さぶり、学びへと向かわせるのか? それはソクラテスの昔から対話なのだ。いわゆる無知の知の自覚を促し、人を思い込みから解放する対話は、元祖ソクラテスにおいても、ほとんど成功していない。ソクラテスの対話は、21世紀に生きる私たちから見れば、ずいぶんまどろっこしく感じるのは事実だ。だけど少し方法を変えれば、授業中のほんの一言、ほんの一瞬の対話がその人の人生を根こそぎ揺さぶることだってあり得るのではないだろうか? 

本書は「著者がプラトンと、どう向き合い何を学んできたのか?」を語っている。著者というフィルターを通すことでプラトンの思想が生き生きと蘇ってくる。そんな感想を持ちました。