オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび495

ぼくが出会った合唱指揮者①  山根一夫先生

 


我が師、山根先生について書く。おそらくは日本の合唱指揮者としてパイオニア的な存在であり、合唱指揮で何とか生活していけることを身をもって証明していた方でもある。

しかし、現在山根先生について語られることが少ない。それは先生の性癖によるものかもしれないが、自称最後の弟子である私としては、やはり寂しい。

今からおよそ45年前、学生指揮者なった私は、指揮法のスキルを高めることが至上命題だった。県連講習会で「硬いね」などと言われてもどうしたらいいか? さっぱりわからなかった私は、先生がお好きなお刺身とお酒を持って、京急富岡にある先生のアパートを訪ねたのだ。

教えていただいたのは、基本的な拍子の振り方と姿勢だが、いわゆる齋藤秀雄メソッドで言う「たたき」や「しゃくり」ではない指揮法だった。先生曰くNHKで前田幸一郎と一緒にクルト・ヴェスに教えてもらったとのことで、残念ながらその指揮法を現在に引き継いでいる人はほとんどいない。

しかし「山根が振ればどんな合唱団でも鳴り始める」と言われたその指揮法は、打点が明確で拍の頭が揃いやすく、大振りではない。洗面所の鏡に映る範囲で指揮をしなさいとは、山根先生のお言葉だ。誠に合唱指揮に適した指揮法だと思う。弟子の端くれとして、もっと後の世代伝えていくべきなのかもしれない。

オヤジのあくび494

さだまさし「やばい老人になろう」を読む

 


まっさんの言う「やばい老人」の条件は三つ、知識が豊富、どんな痛みも共有してくれる、何かひとつスゴイものを持っている・・だそうだ。

やばい老人のトップバッターとして、身内のお祖母さんと父親のハードロッカー的な生き方が語られる。金銭感覚はともかくとして二人の人生は、とにかくスケールの大きい。

続けて「精霊流し」をつくるきっかけとなったのが、盲目の邪馬台国学者、宮崎康平さん。「長崎を舞台にした精霊流しの歌を作りなさい」と、さだに一言。なぜ、さだまさしがいわゆるフォークと呼ばれるジャンルに居続けているのか? 少しわかったような気がしました。そして「防人の詩」などの系譜につながるさだまさしの鎮魂歌は、和歌の挽歌の伝統と通じているという話は、なるほどと感じる。

ステージ上のトークと同じように、話は予想外の場所へ急にジャンプして着地する。転じて故郷の話になる。山本健吉さんは「町が僕を覚えてくれている町」と言い、森敦さんは「自分の魂が帰りたいなと思う町」と語る。郷愁。「案山子」で歌われる故郷とのつながりは、さだまさしの音楽が広く共感を呼ぶ理由でしょう。誰も育った町に帰りたいなと思うことがあるのは同じだから。

後半、永六輔の「年寄りに聞くに限る」という言葉が登場する。経験値不信に陥っている感がある現代の若者にどこまで響くかわからないが、日本総人口の中で高齢者の占める割合は大きいし増え続けている。年寄りの知恵を生かさない手はないでしょう!

オヤジのあくび493

松井孝典/南伸坊「科学的って何だ!」を読む2

 


後半は教育談義になってくる。カースト制を受け入れながら暮らしているインド人にとって、ヨガや瞑想は格差を受け入れる手段であるなどと、すごいことを言っている。

教育のあり方ほど話題になりやすく、しかもそれぞれが自分の経験に照らし合わせて一家言持っているテーマはなかなかない。本書でも格好の餌食になっている感じだ。未だに教育現場にいて思うのは、マクロな国家単位の議論よりも個々に必要としているのは、どうやって目の前の子どもの成長をサポートし、さらには彼らに自由な未来を保障したらよいのか? という話なのだ。もう少し言えば、それは教え方や内容よりも、どうやって子どもの気持ちを揺さぶり、ワクワクドキドキのモチベーションを引き出すかということだろう。

後半の方で、欲望を抑えるための宗教の役割について語っている。先のカースト制度も当てはまると言う。分を知る、足るを知る、欲望より快楽などの言葉が飛び交うと、ボクは古代ギリシャの快楽主義者エピクロスのことを思い浮かべていた。私たちが想像する欲望に身を任せた快楽主義ではなく、彼と彼の周囲の生活が大変つましかったことを。

金融市場の拡大、軍備の増強、刺激され続けることでとどまるところを知らない私たちの欲望、それらを可能にする科学の発展・・どうしたらいいか? この対談でも楽観的な未来は語っていない。ただ最終章で松井先生が、ハスやスイレンの起源に興味をもち、調べているエピソードが出てくる。知的好奇心のありかは、いくらでも探すことができる。ひたすら追い立てられている労働者人生や、ただ踊らされている消費者生活からドロップアウトする道はその辺りにありそうな気がしました。

オヤジのあくび492

松井孝典/南伸坊「科学的って何だ!」を読む1

 


本の始めの方で、血液型と性格の話が出てくる。松井先生は「わかる、わからない」と「納得する、納得しない」の境目が、日本語だと「わかる、わからない」で言い表せてしまうので、曖昧になるとおっしゃる。

この本が世に出たおよそ20年前、世の中はスピリチュアルブームで、占い師や何とかカウンセラーがテレビでもっともらしいことを話してウケていた。「今の科学ではわからない」というフレーズが流行った。その現象を科学と対比させてみようというのご南伸坊さん側の試み。松井先生は言う。科学者は「わかる」と「わからない」の境目を考え続けているので「ここまではわかっていて、ここから先はわからない」という答え方になると。

続いて脳の中の内部モデルというキーワードが出てくる。科学とは内部モデルにデータを入れ込むための共通語で、だからこそ世界中で共有できる。ただ人の死とか魂とか、共通語にはできない記憶もあって、それは人それぞれのやり方で内部データ化される。お葬式は、内部データ化のためのプロセスなのかもしれない。

ところで、二人の対話で南さんが「はあはあ」と応じているところと松井先生の「ふつうの人は・・」発言に、その場に居合わせたわけではないのに、妙な溝を感じてしまう。穿った見方をすれば、松井先生の科学者としての優越意識が見え隠れする気がしてしまう。南さんと同じく普通の人であり、対して自然科学に詳しくもないボクは少しコンプレックスを感じてしまった。宇宙という未知で最も面白いテーマを語り合っているだけに、引っかかってしまいました。

オヤジのあくび491

理系科目とボク

 


勘で「多分そうだろうな」と感じて、わかってしまう学習と、自分の言葉で説明できないと先に進みにくくなってしまう学習があるとすれば、中学校の数学にはその境目が今もある。偉そうににそんなことを書くのは正規職員退職後、バイト的に県内大手学習塾の講師をしたことがあって、中3の数学を教えて「何だ! 45年前と変わらない問題じゃん!」と思ったからです。自分なりの言葉で二次関数の変域とか変量を教えたのですが、何とか理解してくれてホッとした体験があります。

そうは言っても、ボクの躓きは中一のKT先生の「負の数×負の数がなぜ正の数なのか?」よくわからなかったことから始まっていて、因数分解の頃は、半ば暗記に頼るしかなくなっていた。本当なら分解結合法則の延長に過ぎなかったのに、混乱していたのでした。

数学以外の理由があって、意外な高校に進んだボクは、その頃精神的にかなり停滞していて、成績は散々だった。それなのに理系コースを選ぼうとしたのは「自分の可能性を試すために学校に通っているはず」という思いだけは、残っていたのだろう。

本当は文系も理系もなくて、自分が学びたいことが見つかった時に、アイテムとしてどのような知識技能が必要になるのか? ということだろう。それをお節介な大人たちが先回りして、どの道に進むためには、この教科がこのくらいできないと、きそが準備できていないとダメだと決めつけているのだ。難しいのは大部分の青年は、未だ自分が学びたいことなどわからないので、大人が敷いたレールの上を走っているということのだ。

アインシュタインが学校時代どのような成績だったのか? 各教科の成績に偏りが見られた事実を振り返ると、学校は平均点を上げるように生徒を叱咤しているけれど、一体何をしているんだろう? と感じてしまう。

オヤジのあくび490

坂東三津五郎「踊りの愉しみ」を読む

 


踊りを観る前に、出→くどき→手踊り→段切れ という流れを知っていれば、もう少し今の踊りはどこの部分なのかな? という見方ができるでしょう。

琵琶歌だつて、前語り、本語り、吟変わり、崩れ、後語りの部分と地、中干、大干、切という唱法を予備知識として知っていれば、もっとわかりやすく聴けるかもしない。けれど、それらのことをなぜ知らないのか? 伝統芸能を学んでいる人が身近にいないからのような気がします。

大山の能舞台で「山帰り」を踊られたエピソードで、奉納で踊ることと、お客様に喜んでいただくために踊ることの違いを語っている。恥ずかしながら私も琵琶の奉納演奏の経験があり、ちょうど参拝客がいなかったので、本当に神様に向かって演奏しているような感じだった。そしてその違いは、三津五郎さんも語っているように目線のさきに何を見ているのか? ということかもしれない。

ジャンルを超えている演目がいくつかあって、本書に出てくる「道成寺」や「靭猿」は、歌舞伎でも琵琶でも演奏される。本書は坂東流で受け継がれてきた踊りがたくさん紹介されているけれど、それぞれ踊りを観るときの参考になる。美しい踊りの背景にどれだけの気遣いが張り巡らされているのか? もわかります。

クラシック音楽を聴きに行くときだって、ある程度の知識がなければ。「ああ、きれいな音でした。」で終わってしまいます。日本の伝統芸能も、現代の生活からはかなり遠い時代の物語なのだから、事前にある程度のことを知っていないと分かりづらい。また所作の工夫について、例えば足の上げ方に如何に神経を使っているか? など文章だからこそ素人にも少しだけわかる。

本書のようにその道の達人名人が、わかりやすく舞台裏を解説してくれる本が本屋や図書館にたくさん並んでいるといいなぁと感じました。

 


読みに来てくださり、ありがとうございました。バックナンバーに興味がある方がいらっしゃいましたら、以下のリンクに放り込んであります。

 


https://www.dropbox.com/sh/h2g746qsfg4i3w3/AAC0j_MtAsVkr19fn-VkxGvIa?dl=0

オヤジのあくび489

宮尾慈良「世界の民族舞踊」を読む

 


私が小学生の頃「ワルツは三拍子」と教わった記憶があります。間違えてはいないのですが、ひっくり返して「三拍子はワルツ」ではありません。音楽の鑑賞曲には「メヌエット」が登場するのですが、三拍子にはメヌエットマズルカポロネーズなどいろいろある。個人的には日本の公立学校だったら、日本人が伝統的に感じてきたリズムを音楽の授業でもっと体験したらいいと思うのだけど・・・。

本書の表紙には「これだけは知っておきたい世界の民族舞踊」とあるが、紹介されている50の舞踊のうち、名前だけでも聞いたたことがあるのは、上にも書いたヨーロッパの3つの踊り、日本の伝統芸能がいくつか、それとキューバのハバネラ、バリ島のケチャだけだった。

ニュージーランドマオリ族によるハカは、オールブラックスの試合前の踊りとして有名だけど、本書では女性だけで踊るハカ・ポイという歓迎の踊りを紹介している。ハカのように踊りは便宜上一つの名前で括られていても、実はさらに細かい種類に分かれ、大変な数に及ぶのだ。

本書は大陸毎に踊りを紹介しているが、読者の方で整理が必要だと感じました。一つ目は動きの身体性で、主に下半身・足の使い方の特徴。二つ目は音との関係で、歌、伴奏楽器、打楽器との関連。三つ目が肝心の内容で、宗教的な意味や物語的な意味など。

各頁は、右側に舞踊の紹介文、左側に画像という構成になっている。折を見てネット上で紹介されている動画を見てみたいです。