オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

音楽の教科書に、もっと「わらべうた」を!

 建国記念の日である。どうやら日本人は日本国民としてのアイデンティティーを失っているらしく、真摯に日本の伝統文化を継承し、国を愛する心を培うべきであるとの議論が世を席巻している。私などは、国民としてのアイデンティティーを議論する前に、一市民=個人としての自立の方がずっと怪しげな雰囲気になっていると思うのだが、このような未来永劫にわたる大きな課題は、政治家の諸先生方による立法の守備範囲を超えてしまうので、たいがいの場合は教育の手に委ねられるというのが、毎度おなじみの流れなのである。


 すでに昔話の感さえあるが、二代前の総理大臣「安倍晋三」氏は、ことのほか教育改革に熱心であった人で、この人の手腕により、教育基本法をはじめとして、教員の免許更新に関する法律や教育委員会文部科学省との関係を見直す法律が矢継ぎ早に国会を通過した。とりわけ新しい教育基本法では、その第二条(教育の目標)で「我が国と郷土を愛する・・態度を養うこと」と高らかに謳われている。おかげさまで我々教育現場に勤務する者は(筆者は小学校の教員です)、道徳の授業等を通して、国を愛する態度がりっぱに育つように腐心しているわけなのだ。


 例えば音楽の授業では、我が国の伝統楽器である「和太鼓」「箏(琴)」「三味線」「篠笛」「尺八」などが次々に登場し。西洋楽器一辺倒だった一昔前の授業からは、想像できないような学習が展開されている。しかし、ここでちょっとした課題がある。例えば「箏(琴)」を学習に採り入れようとした時に、弦を弾く爪をどうするのか?ということだ。何でもいいわけにはいかない。角爪は生田流であり、丸爪なら山田流なのである。もっと言えば、楽器に対する構えも流派によって異なるので、日本中で「箏(琴)」を授業に採り入れている学校は、生田か山田どちらかの流派を選択して教えているということになる。「音楽の授業で扱うのは『伝統楽器に親しむ』ことが目的なのだから、そう目くじら立てなくてもいいじゃないの。」とのたもう方がいらっしゃるかもしれない。はて?伝統とは、本当にそのようなものなのだろうか?


 そこで大人がたしなむ音楽とは、別個に存在した子ども達独自の伝統文化について、もっと学習の中に採り入れていけないものか?と思う。子ども達独自の音楽文化。すなわち子どもの世界でより一層いきいきと息づいている音楽のことである。


 時代を遡りながら、大ざっぱにその変遷を眺めてみよう。昨今のゲームミュージック、アニメソング〜昭和三十年代後半から始まる「NHKみんなのうた」〜大正時代の赤い鳥運動から生まれた「童謡」の数々〜新たな音楽教育の創造とともに生まれた「文部省唱歌」。これより時代を遡るともはや学校という機関はなく、音楽の授業と斬っても切り離せない「おたまじゃくし=楽譜」も関係ない音楽になるのだが、江戸時代以前にも、もちろん子ども達の歌はあった。すなわち「わらべうた」である。


 詳しくは、ヨーロッパ以外の音楽文化(もちろん日本も含む)に対して、すさまじいエネルギーでフィールドワークを展開し、研究を深められた故小泉文夫先生に「わらべうた」に関する著書があるので、そちらを参照されたし。


 わらべうたと言うと、就学前の幼児教育に盛んに採り入れられているのだが、小学校でも特に低・中学年の音楽では、もっともっと教材化が進んでよいよ思う。もう少しおしゃべりを続け、その理由を子ども側の事情と教員の資質側の事情の二点から述べてみたい。


 子ども側の事情とは、音楽とりわけ歌に対して決定的な劣等感を抱いてしまう理由と関係がある。差別的な響きがするので、私は現場では絶対使わないが「音痴」いわゆる「調子外れ」のことである。なぜ音が正しく取れないか?それは、正しく取れない音を、子ども達に歌わせようとしているからに他ならない。例えば、まだ音域が三度しかない子どもにオクターブを歌いなさいと言っても、それは無理な要求というものだろう。音楽の授業と言えば、みんなで楽しく、大きな口を開けて歌っている微笑ましい情景が目に浮かぶが、個別にはそのような苦しい思いをしている子がクラスに2〜3人ずつくらいは必ずいる。そこで「わらべうた」。「わらべうた」は、もともとが子ども達の会話が歌詞になっているのだから、発音が極めて自然で歌いやすい。曲も作曲家の大先生が作った芸術性の香りのあるものではないので、起伏のある旋律線ではなく、口ずさむ程度でそのまま歌になってしまうような気軽なものである。これが「調子外れ」の子ども達の指導にとても有益なのである。身の回りに次のような御仁はいないだろうか?長じてカラオケに行っても「ぼくは音痴だから」と決してマイクを握らない人がいる。オジサンは音楽が嫌いなのではない、調子が外れるから苦手なだけなのだ。その調子外れと劣等感の原因を辿ると、どうも小学校の音楽授業に行き着いてしまう。「わらべうた」で、子ども達が安心して楽しく歌える授業を創っていこうではないか!


 もう一つは、教員側の事情。小学校の教員は、未だに全教科を教えている。音楽も専科教員が配置されない低学年では、担任が教えている。(大都市の場合)この小学校教員というのは、さっきまで、体育館で跳び箱をやっていたかと思えば、次の時間は絵筆を握り、その次の時間は、理科室で実験をしているという書いているだけで目が回るような毎日を過ごしているのだが、最近では、英語まで教え、指示してもなかなか授業に集中しない数人の子どもの指導に追われ、けんかの仲裁に入り、体調を崩した子どもの家と連絡をとり・・自分で毎日同じことをしていながら、改めて書き連ねるとなかなか忙しいのである。これで子どもが帰ったあと、膨大な学級・学年・学校の事務がある。その中で、専科以外の教員は、よほど自分が好きか得意でなければ、なかなかオルガンやピアノの練習の時間を作ることができないのである。そこで「わらべうた」。わらべうたにピアノ伴奏はない。子どもたちの遊びから生まれたこの音楽はすべてアカペラ(無伴奏)なのである。(演奏発表用に編曲されたものを除く)ピアノや楽器が苦手な教員も、何の後ろめたさもなく、嬉々として音楽授業を積極的に創造するようになるだろう。子どもも教員も音楽で苦しむのではなく、やはり音楽は楽しむべきものなのである。