オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ハンドルを握りながら、ちょっとクラシックな気分 1

 無性に好きな曲のメロディーが聴きたくなるときが、何の予告もなしにある日突然自分に訪れる。まるでしばらく音信の途絶えていた友人と、ばったり街で出くわした時のように。

 私は、自家用車を運転している時は、ほとんど音楽をかけっぱなしにしている。まるで音楽がかかっていないと運転できないかのようでさえある。家内に時々「よくこんなに音楽が流れていて運転できるわね。」などと言われるが、逆に音楽が流れていない車内はエンジン音とタイヤの摩擦音が響くだけで、私には、それこそ耐え難く淋しい空間になってしまうように思われる。

 ところでナビに内蔵されているHDにいろいろなCDから曲を落としては、それを聴いているのだが、精神を集中させなければ聴くことができない音楽は、原則入れないことにしている。私にとってそれは、現代音楽であったり、ジャズであったりするのだが、聴く側の気持ちが音楽からそれてしまうと音楽の方で鑑賞お断りのような感じで逃げていってしまうたぐいの音楽だ。

 一応はハンドルを握り、周囲の交通状況を判断しながら進んでいるのだから、本当のところ自分の気持ちをそこまで音楽に集中できない状況で、聴くのは何とも申し訳ない気がする曲は、ナビに記憶させない。


 そんな中でクラシックは、繰り返し聴いている曲がある。「チャイコフスキーの5番」や「ドボルジャークの8番」「ブラームスの1番」など、おなじみの名曲ばかりなのだが、今日は、ふと「運命」が聴きたくなった。

「運命」と言っても、例の「ダダダ ダーン」という動機が鳴り響く一楽章の冒頭ではない。私が大好きで一番胸が締め付けられるのは第二楽章なのだ。

1.運命交響曲 第二楽章

 第一楽章で、まるで周囲に八つ当たりを食らわすかのように、攻撃的に自己を主張したベートーベンは、二楽章で突然自分の内面を見つめ、さらけ出し始める。テンポもとてつもない速さで猛然とダッシュしていたのをやめ、いったんは立ち止まってしまい、ややおぼつかない足取りで、再び少しずつ歩き始めたというところだろうか?

 クラリネットの奏する22小節目 第二主題変イ長調のメロディー「ソシ ドドレミ ドレミミファソ」は思わずこぼれてしまった切ない気持ちのようにきこえるが、それがやがてハ長調に変わり、他の管楽器に引き継がれていく様は、心の痛みを互いに分かち合っているかのようだ。その後の自在の変奏は、さすがベートーベンとうなるしかないのだが、ひとまずの収束を迎える196小節目 フルートで出てくる「ドミソ ファミ レド シーシトレド」の美しさも気持ちの奥底に沁みてくる。

 今、車で聴いている演奏は、カルロス・クライバーウィーンフィルを指揮した「運命」だが、初めてこの演奏を耳にしたときは、正直言ってクライバーのよさが十分に発揮された演奏のようにはきこえなかった。流麗でとろけるように甘い歌わせ方と、なぜこんな心地よい速さが可能なのか?と思わせる本当にツボにはまったときの疾走感で、万人を魅了し続けたクライバーの美点が、当初この演奏からは、あまり感じられなかったのだ。

それは、ひょっとすると「運命」の持つガチガチの手強さなのかもしれない。ベートーベンに天国から、「ほれ、できるものならやってみろ!」と見下されてもしかたがないほど、この曲の構成は完璧無比で、妙な小細工やうすっぺらい解釈を頑として受け付けない堅牢さがある。でも、最近少しきこえ始めてきたのは、クライバーが要所要所でベートーベンと一緒にしっかり歌っているということだ。それは、いつものクライバーが見せる朗々とした天真爛漫な歌い方ではないが、それでもベートーベンに寄り添い「ここはこれでいいんだよね」と互いに顔を見合わせながらいっしょに歌っているのが、きこえてくるのである。

 この曲のもつ計り知れないパワーを正面から受け止めるのが、しんどい日には、あの激しい第一楽章を後にまわして、二楽章〜三楽章だけを聴いてみるのもいいだろう。そこには武装していない素顔のベートーベンが立っているはずだから。そして、傷つきかけたあなたの心にきっと寄り添ってくれるはずだから。