オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

「さくら」を愛で、「さくら」を歌う。 2

 滝廉太郎「花」

名曲は、古くならない。それは、時代を超えて、人々が曲の中に新しい美しさを再発見してきたからだろう。滝廉太郎による本邦初の合唱曲「花」も、そのような名曲の一つだ。

 よい曲なのだから、だれがどのように歌っても構わないけれど、欲を言えばこのように歌ってほしいという曲がある。とりわけクラシック系統の楽曲には、それがかなり必然的な条件として付帯してくる。この滝廉太郎の「花」も、アレンジが数々施されているが、できればヴィブラートが適度な範囲で抑制されている美しい女声合唱と軽く明るい音色を得意とする伴奏者(最弱音でも一粒一粒の音がしっかり立っている技量をもったピアニスト)の演奏で聴きたい。

 子どもの頃、音楽の教科書で出会った時から、この曲のすがすがしさ、晴れやかさが忘れられない。その頃は、文語調の歌詞の意味さえわからなかったわけで、「錦織りなす長堤」を「錦織りなす朝廷」と勘違いしており、隅田川と宮中の関係を疑問に思っていたものだ。(誰にも言わなかったので、恥をかかずには済んだのだが)

 もう一度歌詞を読んでみよう。

春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

見ずや あけぼの露浴びて
われにもの言ふ櫻木を
見ずや 夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき

 思わずうきうきしてくるような前奏は、春を待ちかねた人々の浮き立つ心とシンクロしている。歌が開始されても旋律やリズムは、ほとばしる泉のように流れ出て、先へ先へと美しい音楽の「花」の世界に人々をいざなっていく。曲は、一応二部形式(AーA’ーBーA’)に近い形を取ってはいるが、一気呵成に歌われると、通作歌曲のようにさえ聞こえる。わき出てきた曲想がそのまま譜面に表現されていながら、どこにも非の打ち所のない作品に仕上がっており、かの天才モーツアルトとの共通点も感じられる。

 滝は、この「花」が収められている曲集「四季」の冒頭で次のように述べている。

 近ごろ音楽は進歩発達し,歌曲も少なからず作られた。しかしその多くは音楽の普及を目的とした学校唱歌であり,程度の高いものは少ない。比較的程度の高いものは,西洋の歌曲に日本の歌詞を当てたものであり,単に歌詞の字数を合わせたにすぎないため,原曲の妙味を損なうものが多い。中には原曲のおもむきに合った歌詞が付いた例もあるが,所詮は一時しのぎの便法であろう。
私は,力不足ではあるが,常々このことを残念に思っていたので,我が国独自の歌詞による歌曲をいくつか公開し,我が国の音楽の進歩に寄与したいと思う。

 実に滝の意気込みが感じられる「その心意気やよし」である。日本の近代歌曲は、まさしくこの曲からスタートしたのだから。

 余談

 昨年逝去されたジャーナリストの筑紫哲也氏は、滝廉太郎の妹トミの孫である。筑紫自身は生前「私には音楽の才能がないので、私が『滝廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐しているとのこと。

 しかし、氏は早稲田大学在学中、男声合唱の名門早稲田大学グリークラブに在籍しており、決して音楽と縁遠い生活を送られていたわけではない。