開港50年 100年前にできた横浜市歌
南能衛の曲として伝わる曲には、文部省唱歌で「村の鍛冶屋」や「村祭り」がある。
ただし、文部省唱歌については、作曲者・作詞者を特定することが困難であり、あくまでも推測の域を出ない。
話は横道にそれてしまうが、「春の小川」「もみじ」「おぼろ月夜」「ふるさと」など、共通教材として現在も音楽教科書に使われているこれらの曲は、作詞高野辰之 作曲岡野貞一 とされてきたが、これらについても確証が得られていないのだという。日本人の誰もが知っているこれらの名曲が、文部省唱歌と名付けられたことにより。作詞者作曲者が特定できないというのも、何やら残念な話である。
この南の曲に、森林太郎(森鴎外)が歌詞をつけた。鴎外(以下鴎外と記す)の日記によれば、明治42年5月12日 南が森を訪ね、市歌作成について相談している。同年6月6日 電話によって南に招かれた鴎外が、楽譜を見て、直ちに歌詞を転記する。7月1日(明治42年当時は 7月1日が開港記念日だった!)横浜に赴き開港祝賀式典にて、市歌の演奏を聴く。
このような経緯で作曲された市歌だが、おそらくは全国に類を見ないのは、市歌作曲後100年間にわたり、ずっと市内小学校で教えられてきたという事実である。つまり、横浜市内の小学校に在籍した者であれば、そらんじて歌うとまではいかなくとも、一度は耳にしたであろう曲が、この横浜市歌なのである。市の歌は全国に数多かれど、これだけの人口に流布され歌われている曲は「この横浜にまさるあらめや」なのである。
現在の学校行事では、新しい教育基本法に盛られた「郷土愛」という目標と相まって、卒業式でも必ず歌われるようになり、ますます歌われる回数が増えている。
大学を出る頃になるだろうか?とある宴会で、偶然出身地の話題になった。横浜市出身のメンバー全員がその場で何ら打ち合わせも練習もなく「横浜市歌」を斉唱したことをおぼえている。私も小学校の1年から3年までは、同市内の小学校に通っていたので、かなりうろ覚えであったけれど、一緒に唱和させてもらった。子どもの頃の記憶恐るべし・・である。
だが、横浜市は他都市から流入する人が極めて多い街でもあり、現在は365万人という「市」としては日本最大の都市を形成しているが、50年前は100万人をようやく越えた程度の人口でしかなかった。つまりこの50年の間に、250万人が増加しているのである。現住所横浜 本籍地故郷という人々が集まって現在の横浜が形作られている。
だから、市歌に話を戻せば、子どもは知っていても大人の大半は歌えないということなのである。3月に筆者が在住する区のイベントで、横浜市歌を歌う場面があったのだが、大半の参加者(合唱経験者だが)は、暗譜を要求される舞台を前にして、楽譜と悪戦苦闘していた姿を思い出す。