オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

音符の功罪を問う 1  

「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。興味をもち、それに没頭している時間が長ければ、自然と物事に長じていくのだ・・と諭すこの言葉は、多くの人に勇気と自信を与えてきたに違いない。

 しかし、「好き」と「得意」の間に、どうしても容易には乗り越えられない深い溝がある分野がある。例えば、学校における「音楽」という教科の存在がそれだ。筆者は、学校の教員をしているのだが、たまに子ども達に似たような質問をしてみることがある。「体育」が好きな子は、大概何らしかの種目でいきいきと力を発揮しているし、「算数」が好きな子は、「算数」がある程度できるから「好き」と答えている場合が多いが、それでも「好き」=「得意」の構図が崩れているわけではない。

 そこで、音楽。「音楽」が好きな子は多い。子どもに限らないで大人でも同様だろう。音楽が大きらいで、音楽をまったく聴かずに生活する事自体が困難であるが、ジャンルを問わなければ、老若男女を問わず音楽が好きな人口は、確実に国民の過半数を上回るであろう。しかし、「音楽」が「得意ですか?」と問われた途端、先程までの嬉しそうな笑みはどこへやら、答えに躊躇し、「聴くのは、好きなんですけれど・・」と控えめに答える人が増えてしまう。

 それは、やはり音楽を表現することが、技能を伴うものであることと関係しているだろう。「歌」にせよ「楽器」にせよ「作曲」にせよ、どれもとてもおもしろそうなのだが、少なからず技能が伴ってしまう。例えば、調子がはずれてしまう人にとっては、宴席でカラオケを強要されるのは苦痛であろうし、楽器を嗜みたいが、あの楽譜が読めないので二の足を踏んでいる人は多い。

 学校の音楽が、なかなか得意になれないのは、「楽しむ音楽」であるよりも「教わる音楽」である要素が学習内容に色濃く反映されているからであろう。「ドレミの歌」が歌えたところで、音符がすぐさま読めるようになるわけではないし、複雑な指使いに苦戦しているうちに、せっかく買ったリコーダーは、いつのまにか部屋の隅で埃かぶっている。(リコーダー。つまり学校で習う縦笛のことである。これだけたくさんの国民が所有し、かつ演奏方法を教わっていながら、大人の趣味として広がりを見せない楽器もめずらしい。)

 その「教わる音楽」を代表する難物が、音符。俗に言う「おたまじゃくし」である。「音楽は好きなんだけれど、おたまじゃくしが読めないんですよ。」と照れくさそうに頭を掻く人をよく見かける。音符のおかげで私たちは、どんな恩恵を被り、またどのように音楽への接近を阻まれてきたのか、そのあたりを論じてみようと思う。