オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

音符の功罪を問う 2

 さて、音符をある程度「読める」ことが前提になっている音楽は、器楽に限らない。合唱、大勢でパート毎に一つの音を発声する音楽も、実は「楽譜が読めた方がいい」音楽の一つに数えられる。楽譜に記された一つ一つの音符から同じ音をイメージして表現するためだ。

 日本人がこれだけ「歌う」ことが大好きでありながら、合唱団に所属する人口(集計可能な合唱人口)が思うようには増加していかないのは、やはり「音符を読む」ことがネックになっている「節」がある。

 昨年度NHK全国学校音楽コンクールの課題曲として作曲されたアンジェラ・アキの「手紙」が、中学校の合唱部のみならず、全国津々浦々で歌われるようになったのは、とてもうれしい。その前年であれば、秋川雅史の歌唱で「千の風になって」が大ヒットしたことで、数多くの編曲が施され、あちらこちらの合唱団で愛唱されたように
。一曲の佳曲がきっかけになって、「歌の世界」に飛び込んでくる人が、増えるのは本当に喜ばしいことだと思う。

「歌」は一人で歌うより、みんなで「歌う」方がはるかに楽しい。どうせなら「みんな」で一つの思いを共有しながら「歌えれば」もっと楽しい。そうだ!だれもが思いを一つにして歌いあげることができる自分にとって最高の作品を書こう!こんなことを思いつき、着想から作曲完成までに二十年余りを要した大作曲家がいる。完成当時はもうほとんど聴力を失っていたその作曲家の名前を、ベートーヴェンと言う。

 言うまでもない「第九交響曲」の誕生について、横道にそれながら話をしているのだが、作曲後二百年を経て、遠い東洋の島国で、「第九」によって「歌う」喜びを享受し、合唱の世界に入ってくる人が毎年大勢いる。天国で
演奏を聴いているに違いないベートーヴェンの表情は、「してやったり」とばかりに、きっとかすかに微笑んでいるに違いない。

 話をアンジェラ・アキの「手紙」の戻そう。ご多分にもれず、私の身の回りでも「手紙」を歌っている。家内が所属している小学校のPTAコーラスだ。(もっとも子どもは、とうに小学校を卒業しており、正確には小学校PTAOGコーラスとでも言うべきグループなのだが)
 家内「PTAコーラスで『手紙』を歌い始めたのよ」
 私 「いい曲、採り上げたじゃない!」
 家内「でも先生が、楽譜に忠実にリズムを取ろうとするでしょう。」
 私 「?」
 家内「楽譜に忠実であれば、忠実なほど元歌のノリから遠くなってしまうような気がするの。」

 この「音符を忠実に再現しようとすると独特のノリが出ない。」という発言は、ポピュラー音楽を楽譜を頼りに再現しようとしたことがある方なら、どなたも似たような経験をお持ちであろう。楽譜に書かれている音符から引き出せる情報は、音楽の一部にしか過ぎないのである。

「混沌とした何かが楽譜に表され曲となる。それを再び混沌に引き戻すことが演奏である。」こんなことを語ったのは、二十世紀最大の指揮者フルトヴェングラーだったろうか。楽譜にかじりついているだけでは、まさにその通りのことが起きるわけである。