オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

音符の功罪を問う 4 

 功罪とタイトルしたにもかかわらず、ここまでデメリットの部分ばかりを論じすぎたように思い、反省する次第。

 楽譜に頼らなくても、音楽をある程度までなら表現あるいは再現できる現代でさえ・・・・・、ん?待てよ。この物言い自体が、実は楽譜一神教の信者であることを告白していないか?元々音楽は口伝によって受け継がれてきたもの。それを世界中の誰もが間違いなく再現できるはず・・という大それた目的で西洋的音符が生まれ発展し、それが唯一普遍的な伝達手段であるがごとく世界を蹂躙したのではないだろうか?現代においても西洋的音符を媒体にしていない音楽は、我が国にも世界中のそこかしこにも伝統音楽としてたしかに息づいているわけで、どうも音符を論じることで知らず知らずのうちに一神教的な不遜な感情に支配されてしまっているようだ。

 そうは言っても、音符が読めることによる情報量の差は、まだ歴然としてある。クラシック音楽に限らずとも受信できる情報量+発信できる情報量に差がまだある事実。

 それは私たちが、外国の方とコミュニケーションを図るため、致し方なく?英語を学ぶのと類似している。(何と、今や小学生にも英語を教えています!しかも小生の務める横浜市では小学1年生から!!まだ母国語である日本語で思考することが十分に確立されているとは言い難い年代の子ども達に英語を教えることが、いったいどうなのか?その意義についての疑問は尽きないが・・)音楽を通して、いろいろな人とコミュニケーションを図りたければ、世界共通アイテムである「楽譜」を読み書きできることは、やはり今後も重要なのだ。

 楽譜は、文字や記号同様、あくまでも情報を伝える手段に過ぎないわけで、今更言うまでもないが、肝心なことは、情報から「何を感じ取り」「何を読みとるか」という受け手の感性や読解力の問題なのである。その点は、生演奏とデジタル化された音(例えばCD)との違いに似ている。デジタル化された音の向こうに、生き生きとした表現者の姿や音楽そのものを感じ取る豊かな想像力があれば、演奏会場に足を運ぶことができない場合でも、いろいろな特徴をとらえ、感想を論じることができるはずである

 そう言えば、昔はレコードコンサートなる鑑賞会が、高校の文化祭とかで開かれていたっけ。一枚のレコードから流れる音楽を、ありがたく鑑賞し、感動にひたる・・あれは、いったい何だったのだろう?ついぞ、最後まで聴いていた経験を思い出せないのだが、音楽のよさの押し売り?権威づけ??元来がへそまがりである私は、ついにレコードコンサートなる催しのよさを理解することができなかった。(そのへそまがりが、偉そうにこんなブログを書いているのもおかしな話だが・・)しかし、現在でも視聴率の高いドラマの音楽がヒット曲へと転じたり、CMを通して名曲の価値が再認識されたりしているのだから、その場に居合わせないだけで、同時に多くの人が同じ音楽に接しているという構図は、成立しているのかもしれない。

 美空ひばりが楽譜が読めなかった。ビートルズは楽譜を書いて演奏していたわけではない。楽譜・音符とは、もう無関係の次元で、人々の心をとらえて離さないすばらしい表現者は、大勢いるに違いない。本当に表現+鑑賞の本質を極めた人にとってみれば「たかが楽譜」の一面があるだろう。

 だが「されど楽譜」。楽譜を手がかりにしながら何とか音楽の森に分け入ってみようという人が、多いのも事実なのである。ちょうど地図がハイカー達に、その山の地形を示してくれるように。山のおよその形は地図に示されている。そこからハイカーが歩き方やコースを決める。楽譜と音楽家の関係も、それに似ている。知らない土地を訪ねる時は、地図があった方がよい。同様にして、未知の音楽にふれる際も、楽譜があなたを導いてくれるはずなのだ。