作詞家や作曲家の名前がわからなくても、誰もが口ずさめる曲がある。昭和38年舟木一夫の歌で大ヒットした「高校三年生」など、まさにその一例といえるかもしれない。当時まだ小学一年生だった筆者も、すべてのラジオから絶えず流れる「赤い夕日が〜」の曲が、一世を風靡していた歌であることは、十分に記憶に残っている。最近では「嵐」の曲などがメディアを席巻しているが、当時は、まだ音楽を伝える媒体が非常に限定されており、しかも他に発信するコンテンツも今に比べればはるかに乏しかった時代なので、まさに時代を代表する歌になり得たわけである。
その作詞家の名前は「おかとしお」。反対から読むと「押しと顔」となるが、これは故人が、新聞記者当時に先輩から叩き込まれた「記者として必要な資質」のことらしい。新聞記者当時という言い方は、いささか不適切なのかもしれない。なぜなら彼は、日本コロンビア専属のプロ作詞家になった後も、毎日新聞社に籍を置き続け、定年退職を迎えているからである。
生来あまり体が丈夫ではなかった故人が、湯治に出かけた思い出が「高原列車は行く」の歌詞に投影されているというが、体が弱かった人が本を友とし、読書三昧に耽るのはありがちな話で、故人も文学青年として雑誌に投稿するうちに詩人西條八十と交流をもち、しまいには弟子となるわけだ。
話は横道にそれるが、己の追究する芸術性と万民に受け入れられる大衆性の両立は、いにしえより多くの文学者や芸術家にとって永遠のテーマであった。丘灯至夫の師である西條八十は、この両立を具現化している人物として、非常に興味深い業績を残している。フランス文学者としてヴァレリーと交流し、日本における象徴詩の詩人として、たしかな足跡を残す一方で、「青い山脈」「ゲイシャワルツ」「王将」「東京音頭」等々、枚挙にいとまがない程の歌謡曲や童謡の作詞家として活躍している。邪推すれば、八十先生にとっては、どちらの作業も「とても楽しくてしょうがない」状態だったのだろう。才気あふれる人物のなせる技にはちがいないが、どこか一つのたこつぼにはまりこまない自由闊達な気風が、とても素敵である。
丘灯至夫氏は、西條先生の仕事の内「歌謡曲」の作詞に関する部分を、しっかり受け継いだお弟子さんである。しかし、師匠同様、お弟子さんもなかなか型にはまることを良しとしない面が見られる。