オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ほいほい的音楽展望 1

 農耕民族というものは、一つの目標を示されると力を合わせ、目標を達成するのに適した民族性をもっているらしい。勤勉であること、集団の規律に対して忠実であること、それらの特性が高度成長時代、言い換えれば日本が経済成長を遂げる過程(いや、文明開化、富国強兵。殖産興業の大目標に向かって邁進していた時代から続いていたのかも?)においては、大変有効に作用した。

 しかし、バブル崩壊・失われた10年の辺りから、識者ならずとも市民感覚として十分に体験してきたように、すでに成長の時代は過ぎ去ってしまったのだ。成熟社会だの、ポストモダンなど、新しく迎えた時代に対して、様々な呼び方が試みられてきたが、結局は、多くの人々を駆り立てる新たな付加価値が見いだせないまま現在に至ってしまったというのが、実状なのではあるまいか。

 本邦の首相が国際社会に対して、二酸化炭素の排出削減目標25%を提唱したのは、その実効性はともかくリーダーのあり方としては、評価したい。リーダーとは、希望ある未来や目標を語ることで、人々をその気にさせる資質をもった人のことを指すからである。

 訳がわからない御託を並べるのは、もうやめにして、そろそろ音楽の話を始めよう。地球環境についてはともかく、音楽の未来については、語りにくい時代が続いている。

 100年前の音楽事情、50年前の音楽事情を振り返ると、それなりに新しい音楽を模索しようとする動きがあったように思う。およそ100年前、ストラヴィンスキーが発表した「春の祭典」に対する聴衆の興奮(ほとんど暴動?)が、現代の作曲家の手から創出されることがあるのだろうか?

 50年前、チャーリー・パーカーやその仲間達(例えばマイルス・デイビス)によって噴出した、まるでマグマのような音楽が、今、世界のどこに行けば見つかるのだろう?

 この閉塞状況は、いったいどうしたことなのか?