オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ほいほい的音楽展望 2

 そもそも作曲家の役割とは、いったい何なのか?

 第二次世界大戦以降、現代音楽の作曲家達は、「新たな未だだれも経験したことのない音響の創出」にこそ、自分たちの職務があると己が使命を認識し、音世界を様々に破壊し、再構築し始めたようだ。その成果として、無調の音楽が作曲され、十二音技法やらクラスターやらミニマルミュージックやら、絵のような楽譜やら4分以上も音が出ないでそのまま終わってしまう曲やら、いちいち挙げてはきりがない位のとにかく膨大な試みが、元祖と辿ればシェーンベルク以来およそ100年に渡って続けられてきた。

 しかし、もしも上記の「新たな未だだれも経験したことのない音響の創出」によって「人々の琴線にふれる感情の動き=感動」を引き出すことに成功していたなら、現代音楽の今の姿はなかったであろう。

 むろん、成功している作曲家は何人もいる。故武満徹や故黛俊郎の音楽は、二十世紀の貴重な文化遺産として今後も演奏されるだろうし、現在活躍中の作曲家であれば、N響アワーの解説者として、メディアに顔を出している西村朗先生の音楽は、今現在、日本の作曲家が「ここまで書けるのか!」という世界的な評価を得ている。うんとポピュラーな名前としては、映画音楽の世界ですっかりおなじみの久石譲は、もともとミニマルミュージックを得意とする作曲家である。

 バッハやベートーヴェンと同じスタイルで曲を作っていては、進歩はない。だれもそんな音楽は、書かなかったからこそ、古今の天才達は、その曲を後世に伝えることができたのである。

 だが、同時に作曲家の生前か死後かは、ともかく多くの聴衆が、その音楽に接し、曰く形容しがたい感動に襲われたからこそ、現在に至るまで再演が続けられていることも事実であろう。再演されなかった曲は、結局歴史の書庫の中に保管されてしまうのである。

 音楽としての先進性と聴衆が受け止める感興の両立。そのはざまの中で、作曲家は絶えず悩み、自分の音を模索し続けている。その模索の時代が続いて、久しい。