オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

フリードリヒ・グルダを聴く

 以前、当ブログでふれたフリードリヒ・グルダのCD「グルダ・ノンストップ」を聴く。

 演奏家は、幼い頃は師から、長じては聴衆から、評価を得た資質を育くみ、自分の能力を開花させていくのだろうか?
 彼の弾いた1967年の「ベートーヴェン ピアノソナタ全集」は40数年を経た今も尚、粋な演奏を高く評価されているし、モーツアルト弾きとしてもグルダの自由闊達な表現は多くのファンを惹きつけ続けている。
 グルダというピアニストが幼少のことから評価されてきた「クラシックの演奏家」としての資質については、現在に至るまで高い評価を受けている。
 長い目で見れば、俗に言うところの歴史にその名をとどめるのは、「クラシック」その中でも、ベートーヴェン弾き・モーツアルト弾きとしてのグルダであろう。

 音楽家は、自己の内部から突き上げてくるような衝動を、自分自身の手による曲や最も自分が共感できる(自分自身と一体となることができる)音楽で表現する。そこにあるのは、そもそも周囲の評価など度外視したものであり、とにかく「やりたい音楽」がそこにあるだけなのだ。
 グルダの場合、それはジャズだった。ただ、ジャズピアニストとしてグルダを評価する向きは、少ない。それは、多くのジャズファンが求めている音や表現と、グルダがつむぎ出す音楽が、かなりかけ離れていたものであったことと無縁ではないだろう。

 なぜ、クラシックの音楽家として確固たる地位と実績を積み上げていたグルダが、突然真剣にジャズを志したのか?「現代世界は、ジャズを求めているのであって、死んだ作曲家達ではない」「過去の音楽を受け持つ博物館員ではいたくない」という彼の言葉が、ジャズに対して傾いていく彼の覚悟を表現している。

 グルダの生き方・表現者としてのあり方から、私たちが学ぶのは「自己を規定しようとする束縛から自由であり続ける」という姿勢だ。
「ノンストップ グルダ」という1993年にミュンヘンで行われたライヴ録音を聴いている。
 1曲目「フォー・リコ」という彼の子どもに贈られた楽しいポップなオリジナル曲の弾き手が、そのわずかに3〜4分後に3曲目の「モーツアルトの幻想曲」を素晴らしい水準で弾いている変化のあり様は、実にジェットコースターで急坂を昇り下りしているような感覚だ。
 このまま、クラシックが続くかと思うと、再びオリジナルに戻り、自由奔放な演奏が展開する。5曲目「プレリュードとフーガ」における音楽的な飛翔は、先程まで200年前にモーツアルトが楽譜に書きこんだ音楽を奏でていた人物と同一人物であることが信じがたい位である。

 しかし、グルダの最大のよさであり、また同時にジャズ弾きとしての弱点は、結局は「美しすぎる音色と安心して聴いていられるたしかな技術」によって常に演奏が支えられていたということであろう。だから、どのようにジャンルが右へ左へと変幻自在に目先を変えても、そこには確実にグルダの音があり、音楽があるのだ。

 ある意味、自分らしさ・自分のやりたいことを模索し続けた音楽家グルダの世界の一端が、味わえる一枚です。