持続可能な社会について、ちょっと考えてみたい。
社会主義、共産主義が事実上崩壊して、早いもので20年以上が経過した。その間に富の再分配に関する人類の思考は、深まりを見せたとは言い難い。
日本では、バブル経済崩壊後、低成長・デフレ傾向がずっと、続いており、新自由主義の名の下に自己決定、自己責任という弱者切り捨ての発想がまかり通り、格差がますます拡大しているのは、周知の事実である。主にその政策は人気を背景にした小泉純一郎政権によって推進されたのだが、もしその舵取りがなかったら、地方はもとより大都市さえもデフレの荒波をかぶっていたかもしれないわけで、評価は歴史上のもう少し後の時代から俯瞰してなされるべきだろう。
もう一つ、日本の20年間に影を落としてきた言葉がある。ポストモダンである。生活の豊かさがある程度満たされている時代は、付加価値により経済を活性化していくべきであるという話に通じる。事実日本は第二次産業の国から第三次産業中心の国へと完全に変貌を遂げている。
しかし、一人一人が生産者として、確実に売れるものの一部を作り、結果としてその代償としての給料をある意味平等に受け取っていた時代から、サービスという売り上げや顧客による評価により、労働に対する評価が変動する時代に変わったことにより、富の再分配は、横並びの賃金が崩れ、富んでいる一部の階層と、その他大勢の階層に分離してしまった。これは、日本だけの話ではなく、アメリカを始め、多くの先進国に共通の課題である。99%の貧困層と1%の富裕層という大きな矛盾を内包しつつも、人々はこの先も自由主義経済の中で生きていかなければならないのだろうか?富の再分配に関するシステムの再構築が急がれているように感じてならないのだが。
もう少し視点を広げてみると、欧米中心の先進国が世界経済を独占し、そこに日本がちょっと割り込んでいた時代から、韓国、中国などに象徴される極東のみならず、世界各地で新興国がめざましい発展を遂げ、富の再分配は、地球レベルでは少しずつならされてきているようにも見える。だが、そもそもこの星の許容量は、どこまでなのか?人口然り、二酸化炭素然り、フロンガス然りである。人類の欲望のために蹂躙されてきたこの星の自然を、もう一度冷静な視点から計量する必要があるだろう。所詮人類は地球の自然の一部分にしか過ぎないのだから。