フィッシャー・ディスカウ、畑中良輔、そして希代の名評論家である吉田秀和氏の訃報が相次いで流れた。人は誰もが掛け替えのないそんざいであるけれど、その人の立ち位置が全く独自であり、誰もがたどったことのない航跡を描いて、その世界に行き着いた人であるとすれば、もはやもう誰もそこに行き着くことはできないだろうと思う。月並みな言い方に陥るが、天才とは、そのような仕事をした人に送られる言葉なのだろう。合掌。
今はテナーを歌わせていただいているが、学生合唱団時代の私はバリトンであった。一年上の先輩が機関紙の筆名にフィッシャー・ディスカウの名前をもじっていたところから、この世紀の大歌手の名前を初めて知った。その後、福永陽一郎著の「演奏の時代」を通して、ますますこの歌手がとてつもない存在であることに気づき始めた。その数年後、自分にとって最もきつく、しんどい時期にディスカウの歌うシューベルトが心の支えであった。ドイツリートという普遍性の高い音楽表現は、言葉の壁ゆえになかなか我が国の音楽ファンの心に染み入っていかないところがあるが、フィッシャー・ディスカウの残した歌曲演奏は、これからも永遠にその価値を失わないだろう。
畑中良輔氏は、朝日新聞の音楽評論でお馴染みだったが、(私は、字が読めるようになってこのかた、ずっと朝日新聞を読んでいる。)学生時代…学生合唱界を牽引していた慶應義塾大学ワグネルソサエティー男声合唱団の演奏を、五反田の郵便貯金ホールに聴きに行っていたのだが、そこの指揮をとっていらしたのが、なぜか畑中良輔氏であった。その後、藤沢市民オペラに来場され、評価をいただいたり、若杉弘指揮する第九の指導にいらっしゃり、指導を受けたりしたものだ。その後、所属していた合唱団の指揮をとられたが、私自身も合唱団を去ってしまい、そこでの重なりはない。言葉を大切した歌唱についての指導が記憶に残っている。
吉田秀和氏は、やはり新聞の評論でずっと読ませていただいた方だ。そもそも音楽を文で語るという行為が、かなり無謀な話だが、吉田秀和氏の文は、文の向こうから音楽が聞こえてくるような筆の進め方をされていた。むろん楽譜の一部を提示するという工夫もあったろうが、それ以上に自分自身の感性が、いかに音楽とシンクロしているかが伝わってくる文章だった。名著は多いが、私はご自身の音楽鑑賞の履歴を吐露したような「私の好きな曲」という本が読み返す回数が一番多かった。
悲しい知らせは、なぜか連鎖してしまう気がする。巨星が堕ちた後、新たに地上を照らす光を今は待つのみである。