オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ちょっとした人との違いが、誤解を生み出し、悪口、差別、からかい、そして陰湿ないじめへと連鎖していく。自分をうまく表現できなかったり、対話が不得手な子はいる。でもその差異がなぜ相手との間合いを広げる行動に結びついてしまうのか?逆にどうやってその子をサポートするかを学ばなければいけないのに。
また、誰かを攻撃することで、またはそれを指示することで存在感を発揮する子どもが残念ながらいる。裏返すとその子自身も、いついじめられる側に回るかわからない危なっかしい綱渡りを演じているわけだが、それを恐れるあまり、いじめをくりかえしてしまう。
さらに「やってねえし」「関係ねえし」という直接関係ないことを盾にして、事態から距離を置き、傍観を決め込んでいる多数派がいる。

私はこれらの背景に、強い個人、自立した個人を育てようと躍起になってきた教育観のほつれを感じてしまう。急に分厚くなった教科書、コマ数が増えた時間割、いわゆる「ゆとり」時代以上に競争に追い立てられている現実の中で(もちろんゆとり教育の時代にもいじめはあったが)、敏感な子どもたちは、他人との差異について、さらにデリケートになってしまったのではないだろうか?
社会には強い個人も弱い個人も混在しており、その中で互いの差異を認め、支え合っていかなければ、経済成長が飽和に達した未来の不透明な
時代を生きていくことは難しいことを、まず伝え、教えなければならないのに。
学力を比較する競争?に勝つこと、自分のよさを点数でしか測れない子どもたちは、一番大切な「人とどうつながっていくのか」を、上手に学習できないまま、日々を過ごしているように思えてならない。