学歴という呪縛1
伺った記憶もないのに、自ら学校歴を紹介していただける方がいらっしゃる。学校歴を名乗る必要性に迫られる場面が多い人間関係の中で生活されてきたのだと推察する。
また私の亡くなった親父は、勤めていた会社の中で、随分学校歴についてコンプレックスを感じる場面が多かったようで、とにかく会話の中の登場する才能豊かな人は、ことごとく東大卒であった。二人の息子のうちいずれかでも親父の願う日本を代表する最高学府の門をくぐれればよかったのかもしれないが、それはとても凡庸な兄弟の及ぶところではなかった。
国内においては、誰もがひれ伏す迫力を未だに保持しているのが、東大卒という印籠、いや学校歴である。大学を受験する時点において、追随を許さない高い学力を有していたことの証明とそれに及ばなかったその他大勢の劣等感が交錯して、水戸黄門の「これにおわすをどなたと心得る!」状態になってしまう。幸いなことに私の身の回りにいる数人の東大卒の皆様は、自ら学校歴を大袈裟に名乗ることなく、お付き合いいただいているのですが。
学歴あるいは学校歴を開陳することが、何らかのステータスの確保に役立っている場合があるのだろう。それがゆえ未だに履歴欄に最終学歴を記入することが多い。さらに、高等教育を受けさせたいと願う親にとっても、学校歴は極めて魅力であり、サンデー毎日を始めとする各社がこぞって大学の合格者数を掲載し、それを進学する高校あるいは中高一貫校の選択の基準としているのだ。つまり学歴という呪縛にかかっているのだ。
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