オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

司馬遼太郎「明治という国家」を読む

司馬遼太郎「明治という国家」を読む

帰り道に古本屋に寄ろうと思い、ふと考えた。自分は何が読みたいのか?と。小説、教育書、趣味娯楽・・・さてただの時間つぶしではなく、読みたい本は何か。それは言い換えれば自分が何を求めているのか?と言う問いとほとんど同じ意味だろう。
まず一番先に頭をよぎったのが歴史小説で、飽きっぽい自分が長編に耐えられるのは、このジャンルだから。早速歴史コーナーを探し物色し、司馬遼太郎「明治という国家」を求めた。
ご多分に漏れず、多くのファン同様に私も司馬遼太郎の小説は、かなり読んできた。時系列を追いながら、個人の生涯を事実で裏付けながら語る手法は、まさしく大河ドラマ的であり、日曜夜のNHKドラマで司馬作品が多く取り上げられてきたのも頷ける。しかし、本書は初めからドラマ向けに構想された経緯もあり、「明治国家」という固体を、様々な切り口からその断面を割って見せる仕組みになっている。坂本龍馬小栗忠順勝海舟福沢諭吉西郷隆盛大久保利通など、司馬小説を彩ってきたスターが、切り取った断面の中でも大活躍している。さらにおもしろいのは、その断面(切り口)でなければ、危うく見過ごされてしまいそうなエピソードや人物が多数登場する点だ。エピソードで言えば、マリア・ルス号事件、人物で言えば、津田出、副島種臣新島襄、カッテンディーケなどにスポットを当てている。その分、話は道草的にあちこち寄り道をしながら進むが、それがまた楽しい。音楽評論の吉田秀和さんにも似たような癖があるが、読者にとってはそれが喜びなのだ。
さて、明治という国家が、どうしてこれほどに短期間の間に成立できたのか?江戸幕府の遺したものや武士道と西洋倫理(とりわけプロテスタンティズム)との相性で語っている。この辺りの洞察は、さすがと舌を巻くしかない。
翻って、司馬遼太郎亡き現在、私たちが今生きる時代は、どのように準備されたのか?精神や思想という生き方の支柱がどう受け継がれてきたのか?グローバルとかポストモダンとか知識基盤社会とか、とかく己の足元が踊る言葉に揺るがされている感があるのだが、戦争によって一旦リセットされてから、どう歩んできたのか?自分なりに考えてみたいと思った。





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