オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

日本の名教師列伝1 吉田松陰1

日本の名教師列伝1 吉田松陰1
〜先生たちは日本の未来をどう見据え、語ってきたのか?〜

ブログのプロフィールに、教育に関する話題とか標榜しておきながら、実際に教育の話題を真正面から取り上げていることが、少ない。それは未だ現職にあるため話題がリアル過ぎて、書きにくい事情もある。そこで少し現実から距離を置いて「昔の教育や先生」や「現代であっても学校教育からは一定の距離を置いている先生」を取り上げ、ほいほい流の「日本の名教師列伝」を語ってみたいと思う。
そもそも先生という言葉の使い方には二通りあって、ここは「先生!」と呼んでおかないと具合が悪いだろうという学校や病院、時には政治家に対する語用がある。もう一つは、その人格との出会いに何らしか感動して「先生」と心の底から尊敬の念を込めて呼称する場合である。このシリーズでは、後者の後世多くの人々から「先生」と呼ばれる名教師を取り上げていきたい。

第1回は、今年のNHK大河ドラマで妹が、取り上げられている吉田松陰先生。彼の門下から明治政府の指導者が多数輩出したことが、後世への影響力として強調されている。実際吉田松陰は、松蔭神社に祀られている神様になっており、松下村塾もほとんど観光名所化している。
さて彼の思想に立ち入る前に、長州藩が、関ヶ原の合戦以降脈々と培ってきた精神風土についてふれておかなければならないだろう。ご存知の通り、長州は毛利家でして、石田三成に担ぎ出されたとは言え、西軍の総大将である。敗けた西軍の大将が、領地の四分の三を没収されたことは、これはほとんど止むを得ない話のように感じられる。不服ならもう一戦交えるしかなかったのだろうから。
さて、結果として長門周防二国に押し込められた毛利家は、当然多くの家臣を抱えることができなくなってしまう。しかし、それでも毛利家に仕えたいと願う家来が、農民として長門周防に随行した。この恥辱と怨念が数百年の時を経て倒幕に結びつくのだが、この「幕府憎し」に発する結束力は全く凄まじい。幕府を支える勢力の最も真反対にあるこの精神は、ある意味野党的または反体制的であり、また幕府に取って代わるイデオロギーを常に模索し続ける傾向を内包していたことは確かだろう。吉田松陰や維新の志士たちは、このような地域でその志を育んでいたのである。







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