オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

スーザン・ジョージ「オルター・グローバリゼーション宣言」を読む

スーザン・ジョージ「オルター・グローバリゼーション宣言」を読む

速読を自認する私には珍しく少しずつしか読み進められない。内容が巨大でなかなか前進を阻んでいるのだが、その分深い理解を読み手に要求してくる感じの本だ。
もし、あなたが今の世界に対して、それもとりわけ環境問題や保健医療・教育における平等性について、何らかの歪(いびつ)さを感じているならば、本書に登場する団体や個人の行動及び思想は、参考になる場合があるだろう。本書のターゲットは、世界銀行であり、IMFであり、グローバル社会に君臨するアメリカである。それらを中心とした資本金融の流れが、世界の格差を拡大しているという立ち位置なのだ。
しかし、著者はあくまでも非暴力による運動の推進を呼びかけ、いわゆる革命家や社会主義思想とは一線を画している。そして目指す社会のイメージとして欧州の福祉国家を挙げるのだ。つまり資本主義社会の矛盾を突きながら、あくまでも資本主義の枠組みを否定することはないのだ。また民主主義について、次のような言葉が出てくる。
「民主主義とは、私たちが もっている何かではなく、私たちがつくる何かなのである。」ここでは丸山真男が「永久革命としての民主主義」を語っていたことと相通じるものが、感じられる。
最後に、日本でATTAC他の動きが、なぜあまり活性化しないかについて考えてみた。それは自然環境との関わり方や見方、資本金融に関する考え方は日本独自の視点が元々存在していたことと無関係ではないだろう。
鎮守の森に対する崇敬の念に代表されるように日本は元々自然崇拝の国であり、自然を利用して人間だけが豊かになろうという発想はなかったはずなのだ。だからこそ原発問題が、我が国の突き刺さった棘になっているのだろうけれど。
もう一つ、身分制度では士農工商とあるように、最も裕福である商人が一番下に位置づけられていたことが象徴的だが、当初は資本金融に対して独自の視座(偏見?)をもっていたことが伺える。しかし江戸時代から流通・商業が発達し始め、やがて本格的な資本主義社会に移行していく過程で、自ずと富が蓄積される商人や企業経営者に多くの戒めを残している人がいた。それは日本版CSRの原点という評価もある心学の石田梅岩であり、「論語と算盤」にその思想が伺える渋沢栄一だろう。結果として日本の経営者のほとんどが未だに雇われ社長であり、一部の資本家に富を独占されることを、ある程度までは妨げることができる社会になっている気がする。検証が必要な部分があるだろうけれど。直感としては、そんな感じだ。


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