オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

三浦しをん「まほろ駅前多田便利軒」を読む


どんな本を好んで読むかは、どんな音楽をよく聴くか?という問いに似ている気がする。最近三浦しをんさんの本をよく読んでいるが、音楽に例えるなら、耳に馴染みやすい音色を奏でながら、実は結構心の深いところに響いて、記憶に残るようなそんな音楽と比べられる気がする。

作家、作曲家共に自己表現の進化を義務づけられている生業だが、それでもデビュー作や本人がどう思っているかに関わらず、いわゆる世間的に高く評価された作品には、本人の根っこというか、ベースになる資質がしっかり現れていることが多いと思うのです。

そこで直木賞受賞作の本書。すでに人物設定の描き分け方に後年の特徴が見られる。何と言っても主人公多田と相棒?である行天(びっくり仰天!)コンビの絡みがいい。

文中気になるフレーズから二カ所。「生きてればやり直せるって言いたいの?」由良は馬鹿にしたような笑みを浮かべてみせた。「いや、やり直せることなんかほとんどない。」多田は目を伏せた。・・中略・・多田「だけど、また誰かを愛するチャンスはある。与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しく誰かに与えることはできるんだ。そのチャンスは残されてる」小学生に語るセリフとしては何とも重いが、ドラマがデッドエンドに突き当たりそうになる寸前で作者は緩衝材を放り投げてくれる。もっとも作者の誘導で進んできた迷路ではあるけれど。

だが、 無駄に自分を痛めつけただろう。そう言いかけた多田は、行天の破けた皮膚を見た。たしかに言葉でだれかと理解しあえたことなどなかったような気がして、なにも言えなくなった。これは、敢えて反論を待っているかのような虚無がただよう表現だ。希望と後悔、善と悪、愛と憎しみ、振れ幅の大きいストーリーを通して、作者が気付いて欲しかったことは「幸福」への気付きなのだろうと思う。それは登場人物ほどに極端なケースに遭遇しなくても、誰でもふと足もとに咲く野花のように身近な存在なのだろうから。







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