オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

重松清「ビタミンF」を読む。



ふと「家長」という古めかしい言葉、ほとんど死語かもしれない言葉が思い出された。世が世ならオヤジは家長である。家長は家庭内で責任を取るべき事柄について、判断を下し、家庭の構成メンバーもそれに従わざるを得なかった。そんな時代が、70年前までは、何と実際に存在したのである。戦後、家族のあり方は変わりオヤジの役割も大きく変わった。だから、もしこの作品をタイムマシンに乗って、昭和初期の日本のオヤジに読んでもらうことができたなら、ストーリーの理解に苦しむ人が出てくるだろう。戦後70年いろいろなことが変わったけれど、とりわけ家族の姿の変容については、もっと語られてよいのかもしれない。もちろんアナクロ的に懐古趣味や父権などということを言いだすに陥っては、元も子もないのだけれど。

私も家に帰れば一応オヤジである。(子どもは、離れたところで暮らしているが)ただし本編で語り手を務めている40歳前後という年齢を通過してから、早20年近くなるので、「あの頃の俺は・・・」的に回想しながら、読み進める羽目になってしまった。

結論を急げば、結局オヤジとは、人情の機微に極めて疎い。家族、とりわけ子どもたちとのコミュニケーションがうまくとれない存在なのかもしれない。家族にとってみれば、そんな厄介な、面倒臭い生き物が家庭内にうろついていること自体が、なるべく関わらないで済ませようとしたいあたりが本音なのかもしれない。

七編それぞれに、いろいろなタイプのオヤジが登場するが、どれも頼り甲斐があるとか尊敬されるとか、とうの昔におとぎ話になっているようなオヤジ像からは遠く、情けなく、哀れなところにほとんど同情を誘うほどのリアリティーがある。

この作品が作者が意図するビタミン剤になり得ているのか、少しばかり上の世代である私には、十分効き目があるようには思えなかったが、それでも酒場のカウンターで愚痴をこぼしていたり、ほとんどヤケクソで下手なカラオケを熱唱したりするくらいなら、本書を読む方がはるかに健康的な気がする。不器用なオヤジたちの口の奥の方に、少々酸っぱいような苦いような感情が湧いてくるのを感じながら、きっと何かが注入されているに違いない。良薬は口に苦いのである。







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