オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ロボット社会の到来とぼくのデフレ予測

ならば人間は何をするのか?
そもそも人間らしさとは、何なのか?

シンギュラリティーの話の続編。最近のニュースでは、世界最強の囲碁名人がAIに負けたことが大きく報じられ、AIが書いた小説が星新一文学賞の一次審査を通過した。予想以上AIの進化が加速している感じがする。私の大好きな音楽でも、ヴォーカロイドのヒット曲が生まれている。
ふと谷川俊太郎さんの「生きる」という詩を思い浮かべた。「いま生きているということ」で始まり、小室等さんが歌にしている曲だ。日常の小さな心の動き、感情、愛、美しいものとの出会い、かくされた悪への警戒、傷ついている兵士への思い・・・などが羅列されている詩だ。
これら人が生きている事実の断片が、人間が人間でありえるからこそ、成立している何かを教えてくれるように感じる。そして予想不可能な出会い、展開とそれに伴う心の動きは、あらかじめプログラムされたAIにとって多少難しいであろうことを敢えて期待したい。(そうは言え、自動運転さえ出来るAIにとっては、あらかじめシュミレートされた予定調和の守備範囲かもしれないけれど。)
AIに何を委ね、人間はその一方で何をするのか?という分担議論は、この先避けられないだろう。すでに身体を動かし足りない人がスポーツジムに通い続けているように、人間が人間であることを、確かめられる術を売りにする商売がウケる時代が来るのかもしれない。不思議だが、そんな予感がする。

経済の専門家でもないのに、叱られそうだが、私はデフレ論者です。資本主義の行き詰まりは、もはや明らかで、しかもロボット社会の到来により、消費材の生産に人件費がかからなくなれば、デフレは十分予想できる。
ただ、人間はどうやって稼ぐのか?それだけの労働市場があるのか?当面そこは人間がやった方がいいでしょう!という仕事は、想定できる。医者、教師、芸術家など、人間への信頼を前提にした医療、子どもへの細かなサポート、コミュニケーションを要求される教育、そして人ならではの感性が問われる仕事だ。ただ、どれも労働市場的にそれほど大きくはなさそうだ。楽観的すぎるかもしれないが、30年前にどこにもなかった職業や企業が、現在存在するように、30年後に、今は予測もつかない職業や企業が存在しているだろう。きっと。