著者は、他の誰とも違う、一括りに他の論者との同一グループ化を拒むかのような、そんな立ち位置が感じられる方だ。
戦後認識、従軍慰安婦や賠償めぐる考えについて、朝日新聞の大失態と歴史に対する見方を誘導している記事のあり方について、批判を展開されている。しかし、この章については「はい、そうですか」と素直には肯けない部分が、いくつかある。自虐史観と揶揄する論者がいるが、揺るがない事実を元にしながら、今後の近隣諸国との関係について、より相互理解が深まるような教育を推進していくことが、筋だと思うからだ。このあたりの立場は、私個人には違和感がある。
翻って、資本主義経済の行く末について論じている部分については、共感できる点が多い。刹那的な衝動を満たす高度情報化社会において、すでに人々は「がまん」できなくなっている。著者は、終章でネット依存症になった人のリハビリ施設を例に「人間破壊」と呼んでいる。だれかと繋がっていないと不安にかられるSNS症候群。ネットを通せば、がまんせずに欲しいものがすぐ手に入る「がまん」が必要ない社会。しかも、それらは新たな需要を喚起拡大することがない。アベノミクスの第三の矢である「成長の矢」が実感できないのも道理である。もはや経済成長とか持続的開発が可能な社会とかは、幻想なのだろうか?
「じゃあ、こうすればいいのさ!」現代社会に行き詰まりを感じている大多数の人々が、求めている答えを提示することなく、残念ながら本書も現状認識と問題提起で筆を置いている。
私は「豊かさ」の定義を変更する時代が来ていると思う。たしかに格差は拡大し、日々の生活がギリギリの人は大勢いらっしゃる。では今後一人ひとりの所得が上がり続ける時代がやって来るのか?所得が上がったことで本当に豊かさを実感できるのか?どちらの答えもYESとは言い難い。昭和の高度成長期のように、カラーテレビや車が欲しい、だから「頑張れる!」と言った魅力ある消費財は、今はないのだ。だから、持ち家願望やマイカーを乗り回す生活に若い世代が背を向け始めているのも、何となくわかる。家は、どうせこれからの人口減少と共に確実に余り始めるのだから。生活のために働く+αがあれば十分だと感じているのかもしれない。
一言で言うならば「金持ちになれば、何でも手に入る」という高所得またはそれが得られる立場を目指す生き方にNO!と言ってもいい時代が来ているのだと思う。それでは「覇気がない。」「世界をリードする日本人としての気概や誇りは、どこにあるのか!」と、どやされてしまいそうだが、仕方がない。
「豊かさ」。何を以って自分が満足するか?その規準を個人に返すべきだろう。むしろその「豊かさ」を実感できる場・時間・生活スタイルの選択肢を、個人の実態に応じて多岐にわたって準備し提示することが、大切だと思う。
お金がかかるもの、かからないもの。物質的に満たされる、精神的に満たされる。人との繋がりで幸せを感じる。いろいろだろうが、そこにこそ知恵の絞りどころがありそうな気がする。