オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

「幸せと夢と豊かさ」について考えてみた。

中学一年生の時に、校内で弁論大会があった。クラス代表に選ばれたのは「健康であることこそが幸せ」という主題のスピーチだった。なぜか、昔のことを思い出したのは、最近になって「便利さと豊かさ」などについて思いを巡らせているからかもしれない。
「幸せ」になりたい。「幸せ」になってほしい。「夢」を実現したい。「夢」を叶えてほしい。「豊か」な生活を送りたい。「豊か」な生活を送ってほしい。これらは、少なからずだれもが思い、またはその人を取り巻く人から応援されていることだろう。ざっくり言えば、人生の目標と言っても過言ではなかろう。
では、今、すでにある程度は達成度できているのか?または、そのために何かを準備しているのか?普段あまり振り返る余裕がないけれど、その問いについても、答えを準備できる人が多いだろう。(少なくとも日本においては)
さて、ここで気をつけたいのは、その感覚や達成感を誰と共有したいか?ということで、一番始めは、やはり家族なんだと思うし、次に「夢」を共有している仲間だと思う。
ところが、ここに「国」というレベルを安易に持ち込まれてしまい、それが少々危なっかしい場合がある。
「日本人は幸せか?」「日本人に夢はあるのか?」「日本人は豊かなのか?」。こんな問いを持ち出してくることは、個人としては大きなお世話であるかもしれないし、反対に政治レベルでは、税金の使い道を考える際に有効な視点になり得るだろう。ただ論者によっては、おおげさに危機感を煽り、さも非常に不幸で絶望的な状態であるかのごとく語る人がいるので、要注意である。本来個人レベルであったはずの「幸せ」「夢」「豊かさ」の尺度について、社会全体で共有できるかのごとくデータを持ち出してくるのだ。私は、社会学者の方々にその傾向を感じることがある。その是非については、慎重に考えてみたい。