オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

どんづまりの国の文化論試論5

グローバル化

ずいぶん前から、その気にさえなれば、人類はものすごい速さで地球を一周できるようになった。宇宙ステーションは着陸できないので除外するが、八十日間世界一周などという物語をワクワクしながら読んだ時代は、それほど昔のことではなかったと思うのですが、いやはや交通手段の進歩は素晴らしい。(反面時差ボケに悩む人は増えたけれど)
そして、インターネット。今や別に移動しなくても、世界中とコミュニケーションが可能なわけです。
つまり、本稿の前提であった「どんづまり」である地理的な条件は消えつつあるのです。
見知らぬ文化が、いつ何時?世界のどこから?どんな文化がやってくるか?まったく予想がつかないし、それを受け止めるのも学者や宗教家や政治家ではなく、単に一個人なのです。しかし、残念なことに一個人は、その衝撃に耐え得るほどの教育を受けていません。結果、噂・流言に扇動されてしまう。見通しをもった選択が、難しくなっているのは、イギリスのEU離脱アメリカの大統領選挙結果に象徴的な気がします。

では、どうすればいいのか?先人たちが、この「どんづまり」の土地に残してくれた遺産に学び、アイデンティティーを確保すること。それも一つの方法でしょう。鈴木大拙先生の教えを振り返れば、この国の文化には、西洋文化にはない判断規準がありそうです。
もう一つは、すでに世界に発信し、十分な評価を受けている文化=漫画アニメ・ゲーム、グルメ、環境保全などの新しい文化があり、受け身一方のどんづまりではなく、胸を張って世界に文化を発信できる場所になっているということです。
とりわけ「楽しければ、すべてよし」的な発想が見え隠れするアニメは、あの神様手塚治虫さんでさえ、PTAから総スカンを食らった前歴があります。しかし、どうでしょうか?今や、日本を代表する文化に漫画アニメを挙げて、異論を唱える人は少ないでしょう。「アニメって言っても、元はディズニーの真似じゃん。」そうかもしれません。でも、輸入ものをアレンジする「どんづまりの国」のDNAは、そのあたりにしっかり息づいていたのです。

深く考えていそうで、実は何も考えてない。感性を研ぎ澄ます時の鋭さと呆れ返る鈍感さの同居。困った時は助け合う共助の精神と楽しいこと最優先の個人主義の両立。どうも振幅が大きすぎて、私も同じ国民でありながら付いていけない場合があるけれど、これらも「どんづまり」国民の特徴なのです。そして、願わくばこの特徴を長所として誇りをもち、未来を切り拓いていくことを期待して本稿を閉じます。