オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

できるできない論を超えて

FBに、おそらくは子どもたちを前にして「なぜできないのか?」と戸惑う教師を、揶揄するような投稿を見つけました。何かができるようにさせてこそ教師!教師自身も何かができるようになるための指導マニュアルを長い間模索してきました。そして評価・評定際しても「何かができるできない」という視点は、君臨し続けてきました。
私は何かができるようになる、できるようにさせている姿を、否定する者ではありません。でも、現実世界では、「できるできない」「わかるわからない」と同じくらい大切な「そのことをしている時の自分が好き?」という視点があると思う。
できたらおしまい、わかればおしまいという終わり方はなくて、その先にまだまだ深く果てしない世界が広がっているわけで、それを入り口でちょっと覗いて見ただけでおしまいにすることはないと思う。

私自身、子どもたちと授業をしている時の自分、音楽をしている時の自分が好きだ。成功や失敗は、もちろん何度も繰り返されるけれど、ずっと関わり続けるエネルギーになり得るのは、そのことをしている自分が好きかどうか?これが結構大切だと思う。
世の中、自分が好きなことだけやっていて、ご飯を食べていけるほど甘くはない。生活のために耐え忍ぶ仕事もたくさんあるだろう。でも「何かをしている時の自分が好き」は、日々の飢えを潤すための時間になり得るのではないだろうか?
そんな時間を経験しないうちに、夢や目標ばかり発表させられる子どもたち。高い目標ほど多くの挫折を経験し、ある時は目標の変更を迫られ、いつしか夢や目標を思い出の箱に置いてきてしまう人々。

何かになりたいの?それなら今何を準備すればいいの?夢がある子どもたちを、お勉強に追い立ててきたキャリア教育の手法だ。この手法の課題は、今の自分では何かがまだ足りないことを前提にして、そのプラスアルファが教育だと考えている節である。
足りていないものなんてない。今の自分の延長にしっかりと安心できる未来が待っている。

不透明で解決が困難な問題が山積した状態で、大人は子どもたちに未来を渡そうとしている。大人が不安だから子どもたちも当然不安になるし戸惑うのだ。
だったらせめて「何をしている自分が好き」を提供しよう。それが果たしてゲームに熱中している自分だけで、いいのだろうか?