オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

「アメイジンググレイス」という名曲について

妻が所属しているPTAコーラスで「アメイジンググレイス」を歌うらしい。声が出ないのに・・・歌うことを妻はぼやいている。
それ以上に祈りの心がないままに神を賛美する曲を歌ってしまうことの方が、表現としては問題だろう。ちょっと調べてみたら作詞者の牧師さんは、もともと奴隷貿易に関わっていた人物らしい。ある時船が難破し、初めて神に救いを求め、祈ったという。その経験がアフリカから人を拉致し奴隷としてアメリカに送っている自分の人生を振り返るきっかけになったようだ。やがて牧師となった彼は、神の恩恵に感謝する「アメイジンググレイス」を書く。
祈りは、本来個人的な動機に発するものだから、他人に促す時には、祈りを共有する必然性がほしい。教会など祈りを捧げる場に出向いていれば、比較的必然性が得やすい。例えば教会で結婚式を挙げる場合など参列者として賛美歌を合唱するが、これは二人を祝福する意味があるので納得して歌っている気がする。

さて、コーラスで歌う場合、歌詞が祈りの言葉である場合どうすればいいのか?日本人の場合、多くは美しい音楽にくっ付いている記号として歌詞を歌っているフシがある。しかし、それは逆なのである。歌詞(祈りの言葉)の意味をより感動的!に共有するために、音楽があるので、歌詞に込められた願いや祈りを自分なりに消化できなければ、それは単なる音の羅列に過ぎない。
私自身も宗教曲の演奏に関わろうとしているわけで、自分事として正面から向き合うべき課題である。