オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

楽しさと美しさの共有

「歌い手として、自分の声と歌は最終的には自分でつくるしかない。」さっき夕飯の支度をしながら、そんな話をしていた。だから指導者やリーダーができることは、結局サジェスチョンでしかないとも思う。
しかし、それに先立つ感性や心のあり方が、歌を歌う以前に大切なわけで、その根っこ部分が透けて見えてしまうのも、演奏の怖さなのだ。例えば「楽しい」。歌い手が楽しんでいるか?否かはすぐに聴き手に伝わってしまう。つまらなそうにつまらないとしか感じていない曲を歌わされていることぐらいすぐに見破られてしまうのだ。反対に音楽の楽しさを全身で表現している演奏はすぐにわかるし、聴き手も共感してくれる。
課題があるのは「美しさ」の共有。まず何を以って美しいと感じるのか?個々の感じ方が、 初期段階では、未だまちまちなのだ。そこでエライ先生のお出ましになり「このような演奏を美しいというのです。そのために今からお話する努力を各自でお願いします!」と宣言されてしまう。すると最早疑問を挟む余地はなくなってしまい、メンバーは示された美しさを追究することをほとんど義務付けられてしまう。
そして、その美しさの評価者は、聴き手である。聴き手の心に届いた瞬間は、まさしく演奏者として無上の喜びだろう。その一瞬のために音楽をしていると言い換えても許される気がする。
ただここで気になるのはエライ先生との関係性だ。絶対服従を義務付けられている王様なのか?ともに演奏を作り上げていく仲間なのか?私が、合唱グループであることにこだわっているわけは、その辺にも理由があるのですが。