オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

「理解から表現へ」では収まり切らないもの

「理解」が「表現」の前提と信じ込んでいなければ、知識技能を伝える教育が成立しない。その考えに同意あるいは半ばそれを常識ととらえている人は、教育関係者以外にも大勢いるだろう。
この場合、「表現」を「行動」と読み替えてもいいのだが、一定水準の理解度を学歴や資格で証明したことにして、人を楽に評価する基準に変えているのは、人手や手間がもったいないから・・で片付けてしまうには、あまりにも失礼な話である。
そもそも理解を前提にしなくても、ほとんど本能的に?人は表現し、行動を起こすものだ。当ブログのテーマの一つである音楽を例にとれば、楽典や表現テクニックを身につけなくても、人は歌うし、音楽をする。JAZZなどそのような部分を未だに色濃く反映した音楽だろう。ほとんど内的な衝動に突き動かされているかのように人は表現に向かう時がある。
実は、それを自覚しやすくする、もしくは堀り起こすことが教育の使命なのかもしれない。なぜなら、そこにその人がより豊かな人生を送るための種がたくさん埋まっているのだろうから。

2015年の6月頃、考えていたことです。