オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

沈黙、間の意味と価値 試論1

黙していることや沈黙を保つことに、世の中皆ガマンが足りなくなってきている気がする。否、ガマンできない人が目立っているだけなのかもしれない。まず、テレビ。絶えず音が流れており、一向に静かになる気配がない。今もリビングからはこちらが必要としていない朝のワイドショーの音声が聞こえてくる。

日常とは騒々しいものだ。その通り。歴史を振り返ってみても、きっといつもそうだっただろう。その騒がしさからどうやって離れるか?試行錯誤の現実逃避の末に日本人は沈黙に美を見出したのではないだろうか?「静けさや 岩にしみ入る 蝉の声」も、武満徹の音楽も、沈黙や独特の間に対する感性が前提になっている。

沈黙や間は、音楽で言えば、休符。西洋の楽譜は休符の長さが示されている。それは白色定量記譜の時代からそうだ。だから休みは、休みではなく、音を出していない時間も拍を感じていなければならない。音楽から解放されるのは、終止線の後だ。
しかし、日本の楽譜は、箏にしても琵琶にしても、かなりアバウトな気がする。箏は○で休符を表し、譜面にマス目が書いてあるので、ある程度の長さがわかるが、琵琶はわからない。それは休みがいい加減でよいという意味ではないと思う。余韻や沈黙が、次の音を出すための準備ではなく、音が出ている時と同じ価値なのだ。きっと。
そうは書いてみたものの、もう少し体験し、考えてみないと私には言葉で表せそうもない。