オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

対論がない時代

1990年代のある時期、教育界ではディベート、討論をする力を育てようとしていた。しかし、同じ時期討論を得意とする新興宗教のJ氏が毎日のようにメディアに登場したため、弁がたっても、こういうプロパガンダに使われては困るという流れになり、せっかくの機運がしぼんでしまった。
今でも、討論力そのものを育てる指導は残っているが、討論の中身、つまり現実に討論が成立する場面は、どのくらい増えているのだろうか?そもそも、対論が成立し得るのか?

昭和の時代には、ソ連崩壊前と言ってもいいけど、討論があった。政治的に資本主義に対して、社会主義共産主義が正義(歴史的必然!)であるという主張があり、自分の立ち位置を明らかにする必要に迫られていた。
今でもないことはない。日本国憲法の第9条に対する問題は、ずっと続いている。原発の問題は大きなテーマだし、辺野古埋め立ても、ちゃんと腰を据えて議論すべきだ。

消費税値上げのことでも感じるが、対論がない場面が多すぎる。ただ困るからダメと言っている気がする。ならば、問いたい。とてつもない赤字を背負った国家財政をどう立て直すのか?江戸時代の諸改革のように借金を棒引きにできるはずもない。社会保障費を始めとして、予算案にはやはり必要なお金の集積であり、ちょっと膨れすぎているが、ある程度はやむを得ないのだと思う。

政策への対論が成立しにくいから、現総理の長期政権が続いているのかもしれない。モリカケ問題だってウヤムヤにできないのに、厚労省の統計問題だって、大変な問題なのに続いている。

しっかり対論を立てる力がこそが、まず大切なのだろう。その上で、初めて議論が止揚する可能性が生まれるのだろうから。