オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

ますます加速していく時間の中で1

以前書いた気がする原稿。再掲。

 

便利さ・能率化という幻想とパソコン

1995年という節目は、今後永きに渡り人類の歴史に刻まれることになるだろう。何の年かって?Microsoft社がWindows95を発売した年なのです。それまでパソコンがなくてもワープロで十分とか、インターネットの接続やEメールのやり取りなどに縁遠かった人々も一挙に、そしてほとんど否応なしにパソコンと向き合う生活を余儀なくされた。
初期コンピューターは、主に演算のための機械として人々にイメージされてきたように思う。1973年頃横山光輝がアニメ「バビル二世」の中で「コンピューターに守られたバベルの塔に住んでいる超能力のバビル二世」を描いても、当時の子どもたちにはコンピューターとは正直何が何だかよくわからなかった。
さらに昔、私自身は電子計算機が大変高価な機械であったことを記憶している。電子計算機と言っても、今の電卓のような計算ができるようなその程度だったのだろうが。高価というイメージを一掃したのが、カシオから1972年に発売されたカシオミニで何と1万円代の前半で電卓が買える時代が到来した。これは半導体真空管トランジスタ〜IC〜LSIと進化したことにより実現したもので、「もうそろばんを弾く時代は終わったのではないか?」と感じたのだが、なかなかしぶとく今も小学校算数では短い時間ながらそろばんを教えている。ただし先生ができないので、外部講師を招くことが多い。また、8桁までなら整数、小数の計算は、電卓の方がはるかに速く、面倒くさい筆算を教える価値があるのかは、少々疑問が付きまとう。何せ割り算で仮の商を立てたり、小数の乗除で小数点の移動や打ち方を覚えたりする場面で、何人もの子が必ずつまずき、苦戦するのだから。しかし、こちらも未だにみっちり小学校で教え込まれている。
就職後、1980年代の前半、横浜商業高校の情報教育センターで、プログラム言語を学ぶ研修が夏休みに開かれ、参加したことがある。フォートランやコボルを使って、成績一覧表のようなものを作るプログラムを書いてみよう。たしかそんな研修だったと思う。すでにベーシックが普及し始めていて、フォートランやコボルは時代遅れになりかけていたが、生まれて始めてプログラムを書いた経験は新鮮だった。ただこの時も、コンピューター自体はとても巨大な機械で、その時には職場に入り込んでくる予想はもてなかった。
やがてワープロ時代がやって来る。息子が生まれた頃は、キャノンのワープロ、その後は東芝ワープロを使っていて、私のパソコン時代はその後のソーテックのパソコンからスタートする。ワープロ時代が訪れ、一番変わったのが、文書を電子データで保存できるということである。それまではとにかく手書きか和文タイプライター(和文タイプライターが打てること自体が職業として成立していた!)だったので、紙ベースでなく電子データ(フロッピーディスク〜MD〜USBを私は経験した)として保管し、その後はそれを編集しながら使っていくという文書処理が可能になった。
この結果、仕事は能率化が進み、ゆとりが生まれるはずであった。答えはNOである。手書きでなくなったことで、逆に文書のボリュームが増えてしまったのだ。例えば手書きならA4一枚にせいぜい400字書けばいっぱいだろう。ところがワープロやパソコンなら軽々と1200〜1600字は打ててしまうのだ。これを便利になったと言うべきか?判定は難しい。400字手書きで書くのと、1200字パソコンで打つのと、いったいどちらが速いだろうか?
さて、その後もう21世紀なっていただろうか?学校の職員室にも一人一人にパソコンが配当されるようになった。それまでは個人のパソコンを持ち込んでいたのだ。どうも記憶が曖昧だが、すでにWindowsXPの時代になっていたように思う。インターネットやメールが外部(教育委員会とか他の学校とか)とのやり取りに使われるようになった。ところが手で文書を持ち運んでいた時代と違い(今も手で運んでいる文書はある)、いつ何時でも発信できるので、日々、時々刻々、誰かがパソコンの前に番人のように張り付いていなければならなくなってしまった。呆れられるかもしれないが、どこの学校でも副校長や教頭は、パソコンの見張り番である。かういう私もその一人でした。とほほ・・・。
パソコンは、確かに便利であるし、すでにパソコンなしでは生活や仕事が成立しない時代になってしまっている。だが、所詮道具は道具。使いこなすのは人間自身であるはずだ。どのように使うことで、自分にとってどう有益であるか?というプランというか作戦というかが、はっきりしないまま逆にパソコンに使われているのである。あくまでもパソコンにしてもインターネットにしても、手段であり、方法に過ぎないのだから、もう少し冷静になっても良さそうである。電車内でひたすら携帯とにらめっこしている人々を見るにつけ、そんな感想を抱いてしまう。決して他人事ではないけれど。