112オール三善晃プログラムで、なにわコラリアーズが東京演奏会を開いた。
予習として、家で三つの時刻、王孫不帰、クレーの絵本を聴く。それぞれに違うスタイルで作曲されているのが、さすが三善先生。このうち王孫不帰は、今日は演奏されないが今年これからチャレンジする曲でもある。
要は、何に取り組んでも決して易しくはないこれらの曲を、どこまで自分たちの歌として歌えるか?それができるか?ということだと思う。
それこそがこのようなプログラムを平然と組める合唱団のプライドを示せるのだと思う。
ところで個展と銘打ち、一人の作曲家の作品で、すべてのプログラムを組むコンサートがある。今回三善先生のように、千変万化の音色の引き出しを持っている作曲家の場合は、決して飽きないし、むしろワクワクする。例えを挙げるまでもないだろう。児童合唱でよく歌われる栗の実と、男声合唱の縄文土偶が、同じ作曲家によるものだとは、なかなか思えない。
しかし、大概の作曲家は、まず自分らしさをアッピールしなければ自立できないわけで、その個性が認められてナンボだ世界なわけです。
また、なにわコラリアーズのように、他の追随を許さず、自分たちの歌い方を確立していれば問題ないけど、凡庸な演奏で他の合唱団が歌っても大差ないレベルでは、どれだけ価値があるのだろうか?
すべてのステージが楽しかったのですが、とりわけ遊星ひとつの終曲が印象に残りました。