建武の新政の実現の背景には、執権北条高時に代表される鎌倉幕府中枢の呆れ果てた体たらくがあり、武士たちはそれに取って代わる政権を求めていた。北条側から転じて後醍醐天皇に味方した楠木正成は、千早赤坂城の戦いを始めとして、知略に富んだ戦いぶりで寄せ手の鎌倉勢を手玉に取り、それに手こずる間に鎌倉幕府が転覆したのだ。
さてさて、問題はそれからでして、後醍醐天皇はどうやら絶対王政的な権力をイメージしていたらしいのだが、当時政権に求められる判断力とは、土地トラブルの解決など今で言う民事裁判であったわけで、膨大な訴訟に対応できる体制が整わなかった。
どうもやることがオカシイし、自分たちが求めた政治と違うことに気づいた武士たちが、担ぎ上げたのが、足利尊氏。日本史上三悪人の汚名を着せられるが、元来が優柔不断で気持ちの振幅が大きい人で、反旗を翻した際の行動も「何をやっているんだよ〜」と言いたくなるようなじれったさである。それでも圧倒的多数の武士は足利支持に回っているわけなのでした。
圧倒的な不利の中で、楠木正成は一度は足利軍を追い返すことに成功するが、時代や人の気持ちが後醍醐天皇から完全に離れていることを見抜き、次のように進言する。
「天下の諸将はみな尊氏についていく有様です。負けた足利軍に武士はもちろん、京都のものまでもが付き従い、勝ったはずの天皇の軍を捨て奉ったでは、ありませんか。これをもって帝はご自分に徳がないことを知るべきです。」
この後、迫る足利軍に対して、一旦京都から退くことを献策するが受けいられず、ほとんど
自ら死地を選ぶが如く湊川に出陣し、敢え無く生涯を終える。
現在も皇居前広場に馬にまたがった像があるが、忠臣正成は後醍醐天皇を諌めようとした人物としても記憶されるべきだと思う。