タケさんの日本近代音楽史1
○賛美歌から唱歌・童謡へ
〜日本の愛唱歌の歴史を辿る(洋楽編)〜
日本で初めて賛美歌が響き渡った時、人々は本格的に合唱のハーモニーと出会う。
古くは織田信長の時代に宣教師が聖歌を伝え、キリスト教禁教・鎖国後は「オラショ」として、隠れ切支丹の中で伝承された曲がある。合唱曲として再構成され現代に蘇っているが、原曲は信長時代の宣教師が伝えた単旋律のグレゴリオ聖歌で、ハーモニーを伴う合唱文化として「オラショ」が伝承されてきたわけではない。キリスト教を布教しない約束で貿易を許可されていた長崎出島のオランダ商館では賛美歌が歌われていたが、日本国内に広まることはなかった。
賛美歌は現在まで主に混声四部合唱で歌われており、幕末の開港直後1859年横浜開港の年に賛美歌、そして同時に合唱のハーモニーが伝わる。
しかし、賛美歌を日本語に訳す困難さは大変で、音符の数と元の歌詞(例えば英語)は自然に対応しているのだが、そこに一音符に一つのひらがなを当てはめようとした為、日本語の方が少ない文字数で曲を終わらせてしまい、原曲にはある文章が日本語訳で削除されてしまうケースが生じた。これは現在まで日本語訳で外国曲を歌う場合の大問題である。
もう一つは、西洋音階は日本古来の音律と違うので、正しい音程で歌える日本人がいない。そこで都々逸風の賛美歌を考案したり、オルガンに変えて三味線や箏を使うなど苦労されたようだ。
さらに日本の歌は共鳴の技法にこだわらない為、高い音が出ない!二点Eより高くならないように転調するなど工夫されたらしい。
これら宣教師の涙ぐましい努力によって、またプロテスタント各派の協力によって日本語の賛美歌は形作られていく。
最後に明治政府初期の愚策として、国家神道中心の国家作りをめざし、仏教さえも外来宗教として排斥した。いわゆる廃仏毀釈の結果、横浜近辺では鶴岡八幡宮の大塔がなくなっている。ましてや警戒されていたキリスト教は、またもや弾圧を受けてしまうのだ。
参考資料