タケさんの日本近代音楽史3
○賛美歌から唱歌・童謡へ
〜日本の愛唱歌の歴史を辿る(洋楽編)〜
伊沢修二は明治以降の教育に大きな影響を与えた一人だが、音楽取調掛という役職についていた時代がある。彼が明治14年初版「小学唱歌集」を作ったことで日本の唱歌教育がスタートしたのです。(戦前は音楽の時間は唱歌の時間でした)この時の小学唱歌集に載っており、今も歌われている曲に「蛍(=蛍の光)」「見渡せば(=むすんでひらいて)」「ちょうちょ」「君が代(二代目)」があります。
伊沢修二の後ろ盾的な存在が、ルーサー・メーソン先生。伊沢修二がマサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校に留学中音楽教育について教わった先生でした。非常に学業優秀でしたが唱歌だけが苦手で日本の音律と西洋の音律を歌い分けられなかったようです。その伊沢がその後結果的には西洋音楽一辺倒となっていく日本の音楽教育の礎を固めるのですから、なんだか面白い話です。
その恩師メーソン先生を日本に招き、唱歌編纂に取り組んだのです。未だにピアノを習い始める子が使っているバイエルはメーソン先生が日本に持って来たものです。メーソン先生は膨大な量の歌を収集し、アメリカでの初等教育に活かしていましたが、この歌のデータバンクが当時作曲家が育っておらず自前で西洋音階による曲を創作することができなかった日本には救いの手でした。
明治のはじめ、日本の音楽教育については、西洋音楽を日本に移植してそれのみを教育する、日本固有の音楽を育成発展させる、西洋音楽と東洋音楽の折衷、の3つの意見がありました。伊沢は、折衷案をとり、その実現のための準備事業として、東西の音楽を折衷した新曲の作曲、将来の国楽(国民音楽)を興すべき人物を育成するための教育、諸学校に音楽を実施し、その適否を確かめるための実験の3つを挙げます。だいたいは当時の思惑に沿って日本の音楽文化が進んできたことに驚かされます。
女声コーラスで「見渡せば」をどうぞ↓