オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび196

温故知新。昭和の先生、最後の悪あがき1

 

ぼくが大学に通っていたのは、1975年4月〜1979年3月。教育学部だったので、卒業と同時に教員免許をいただき、ありがたく現在まで使わせていただいています。もう卒業してから42年余り。

中国では、学校の先生のことを老師=ラオシー(スー)と言う。ラオは老と書くが、文字通り老いた先生になってしまった。もちろん、就職当時はせいぜい60歳までの未来しか見通しが立っていなくて、その後は公務員は年金がしっかりしているらしい? から、きっと何とかなるさ程度にしか考えていなかった。まさか64歳の今まで教師をやっているとは夢にも思っていなかった。

だいたい今も昔もこの仕事は時間に追われ続けているので、目の前の仕事を日々こなすのが大変なので、将来のことなどなかなか考えるゆとりがないのだ。

そのゆとりのなさが、子どもたちにとっても、もちろん本人にとっても不利益になることは間違いない。教員の多忙化政策というのは、1970年代から主に日教組潰しのため、教員への管理統制が増えていると言われて来たが、現状組合とかは関係なく殆どの教員が疲弊している現実を招いてしまった。

さて、私の場合、59歳で正規職員を退職している。満期の60まで勤めても、すぐには年金は出ない。共済年金だった特例で62歳から出るけど金額は7割で3年待たないといけない。ではそれまでどうするのか? 退職金で食べていくわけだけど、教育委員会も一応仕事を紹介してくれるらしい。一年先に辞める同じ立場だった先輩にどんな仕事が紹介されるのか? 参考までに聞いてみた。その答えを聞いて、私は決意した。野村克也の生涯一捕手ではないけれど、カッコつければ生涯一教師。授業ができる立場になりたい!と。教師であれば授業をするのは当たり前だが、その頃私は中間管理職だったので、直接授業は受け持っていなかったし、そのまま一年後に紹介された仕事を受けても授業はできなかったと思う。

少しレアなコース取りだったけど、退職後5年間非常勤講師と言う立場で授業してきました。