オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび240

岡崎守恭「遊王 徳川家斉」を読む

 

いわゆる名家にはありがちな話なのかもしれないけれど、直系が絶えた場合の安全弁を幾筋も準備しておく。家康の御三家は、七代でストップした後に紀州家から吉宗が将軍となり機能したし、吉宗の子どもたちも田谷家、一橋家、清水家の御三卿となって、江戸幕府後半の将軍となっていく。最も長い格式の天皇家にも系統があったはずなのだが、この辺り先々のことを宮内庁や政治家諸氏はどのようにお考えなのであろう?

この本の前半は、将軍や幕閣の人事や血縁関係の話題である。さらに田沼意次から松平定信への路線大転換の顛末が書かれている。あわや将軍への道があった田安家の松平定信をのちに家斉を出す一橋家が巧妙に白河藩へ追いやる下りなど詳細にに記述されている。

いわゆる政略結婚は、子どもがいて初めて成立する。その点徳川家斉は、子どもが57人!羨ましいような・・ご苦労様のような・・・男子30人.女子27人で、大奥乳母の妙なしきたりがわざわいして成人した子どもが、20人強。それらの子らが諸大名や家臣に婿入り嫁入りしたのだから、大変なネットワークである。将軍の親戚がこれだけ拡散増殖されれば、当然政権も安定する。

ところで遊王というのは、享保の頃の尾張公のように、お金は使ってナンボを家斉自身が実践していたことと関連している。少しアベノミクスに似ている。家斉の時代は、文化文政=江戸に庶民の化政文化が花開いた時代で、植木、川崎大師、相撲、祭り、お召し縮緬と言った文化の興隆に家斉が一役買っている。教科書に登場する滝沢馬琴歌川広重葛飾北斎の活躍期でもある。松平定信水野忠邦による締め付け・緊縮時代に挟まれており、表現の自由がある程度容認されていた時代なのだ。

江戸時代後期と言えば、享保、寛政、天保の幕政三大改革を主導した三人と独自の立ち位置で経済政策を進めた田沼意次がクローズアップされるけど、文化文政の時代に、遊王と呼ばれた将軍(なんと太政大臣もやっている!)がいたことを覚えておきたい。