オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび245

原彬久「吉田茂」を読む2

 

吉田茂の人生は、終戦と同時に外相となり、さらには東久邇宮、幣原内閣に次いで、総理に就任したところで大きな転機を迎える。

この本の副題に尊皇の政治家とあるが、今更言うまでもなく吉田茂は、保守主義者である。マッカーサーの操り人形・下請け的と揶揄されている第一次内閣の際も、実態はGHQに対して最もズケズケと言いたい放題だったのは吉田茂であった。GHQはその内部に民政局を中心に非常に社会民主主義的=革新的な人材を擁し、いわゆる日本の民主化を強力に推し進めるのだが、時として彼らにとって吉田茂は邪魔であった。吉田茂首班指名されないように裏工作(=いわゆる山崎首班工作)していた事実が書かれている。けれども、アメリカ本国よりデトロイト銀行頭取であったドッジがやって来ることにより、経済政策は大きく転換してしまう。

もう一つ、天皇の退位と天皇による謝罪に対して、大きな決断が必要であった。実際、天皇は退位を考えていたし、戦争責任を謝罪する原稿もできていた。これを止めたのが、他ならぬ吉田茂である。もし時の総理大臣が吉田茂でなければ、大きく歴史は変わっていたであろう。

さて元々が官僚であり、政党人ではない吉田茂は党内基盤がなく、学者や官僚を次々に要職に据えた。代表的な人物は、池田勇人佐藤栄作である。とりわけ池田は講和条約締結に向けて、GHQを素通りして、直接アメリカとの下準備を始めている。やがてダレスがやって来て、日本の独立講和、安全保障に関する話し合いが始まる。ここは戦後史のキモであろう。今日まで幾多の課題を抱えながら、続いている日米安全保障条約と、日本が軍備に金をかけず飛躍的な経済発展を成し遂げた出発点がここにある。

その後、池田勇人所得倍増計画佐藤栄作の長期政権など、戦後保守政治の担い手は、ほとんどが吉田茂の側近であった。いわゆる吉田学校だ。

戦後75年。彼の葛藤と足跡を振り返る作業を通して、彼が日本をリードしていた時代に戦後日本が歩んできた道の分岐点がいくつもあったことを確かめることができました。