オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび253

林好雄、廣瀬浩司デリダ」を読む。

 

息子が我が家に帰ってきた時に、哲学談義になることがある。デリダの言う差延とは? のような話になると当方はほとんどお手上げなのだが、そのまま白旗を掲げ続けているのも悲しいので、オヤジのあくび250のドゥルーズに続いて、デリダも読んでみた。

フランスの植民地であった頃のアルジェリアユダヤ人として生まれたデリダの出自、彼が受けた教育、さらには教職の履歴が紹介される。気づくのは、フランスという国の教育課程で哲学に大きなウエイトが置かれているということだ。

翻って現在、日本の青少年が、哲学に触れる機会が何と少ないことか! 何も西洋哲学でなくともよい。東洋の思想宗教も含めて、生きることの意味を問い、生き方を先人に学ぶ経験の貧しさは、現代の世相に少なからず反映しているのではないだろうか?

デリダを読む作業は、これまで自分が前提として理解してきたことを疑ってみることを要求してくる。例えば「差延」についても、過去から未来への時間の一点である現在において、自分は過去にわかっていたはずの自己同一性から、常にズレていってしまっていると言いたいらしい。そりゃそうかもしれないなぁと感じながら、結局デリダはどこかで何かを形而上的に概念化、観念化して、腰の落ち着いた思想をでっち上げてしまうことを、とても慎重に排除していたのではないか? それを自分自身では「脱構築」と呼び、結果的にかなりまどろっこしい言葉を使いながら、一定の論理や命題に対して常に懐疑的な視線を向けていたのではないだろうか? その中には「まじめさ」もターゲットとして含まれており、このブログのように、いい加減を前提として適当なことを書いている者には都合がよい。

デリダが一つ一つ破壊していった瓦礫の後に、1990年代以降の教育や思想が芽吹いていることぐらいはわかったような気がします。