オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび257

金森修ベルクソン」を読む2

 

解説者は知覚について語り始める。ぼくは今スマホに「?」何か思いついた文字を打ち込んでいる。けれどその文字がその文字でなければならない理由は、さほどない。あえて言えば、たくさんある可能性の中から多くの可能性を捨て去って、その文字を選んでいるのだ。今スマホやパソコンでこの文を読んでくださっている方も、何もこんなことをしていなくてもいいはずなのに、他の行動を捨てて、私の拙いブログを読んでくださっている。この捨て去る行為こそが知覚であるならば、知覚とは省略であり無視である。

そして言語。「読む」とか「書く」ということばに行為を言語にすることで、生の流れは固定し、決定される。さらにそこから概念が生まれる場合もあるだろう。概念は純粋持続の死骸なのだそうだ。意識の流れを表現しようとした文学者たちとは、対局的である。

この本には副題があって「人は過去の奴隷なのだろうか」と書いてあるが、今ぼくの部屋では平和鳥がカッタンカッタン首を動かしている。けれどそれがわかるということは、過去に何度も見た光景を回想していることと同じである。過去の膨大な記憶を追認することが現在なのだ。回想に頼らない知覚をベルクソンは、純粋知覚と呼んでいる。けれどそれは実際には、まずあり得ないことだろう。ならばなぜそのような言葉を出してくるのか? 「ボクは」そこにまとわりつく自分自身の過去から、少しでもスライドした立ち位置を求めようとする足掻き的な努力を感じてしまう。けれどそれこそがベルクソンの考えなのだ。