村松友視「老人の極意」を読む
村松友視さんは、プロレスのエッセイで人気作家になる前は、中央公論社の編集者だった。私にとって編集者というのは、かなりクリエイティブな仕事のように感じるが、いろいろな人に会い、その人のおもしろさを見つけ、世間に紹介するというミッションを背負っている気がする。
この本では、作者が出会った老人の中でも、とびきりおもしろい人たちとの出会いを綴っている。
例えば、宮大工棟梁の西岡常一さん。曰く「鎌倉時代に入り鋸を使い始めてから、日本の建築は堕落した」そして路傍の石が何億年という時間を蔵しているのに比べれば、奈良も京都もほんの一昔前、要はそれをどう感じるか。私たちの心の中にあるというオチ。
勝新太郎や森繁久彌の思い出を語りつつ、ぼうふら踊りのエピソードが出てくる。何でも歌舞伎踊りの一つらしいのだが・・。
「ぼうふらが 人を刺すよな 蚊になるまでは
泥を飲み飲み 浮き沈み」
古波蔵保好さんが登場する。沖縄出身の方だが、高速道路が空いている時の一言がいい。「沖縄人は金出してまで急がないからね」スローライフを標榜する人がいるが、私たちは日常先を急ぐためにどれだけのお金を使っているだろうか?
私はまもなく65歳を迎える。どうやらここに目に見えない線が引かれていて、これより先を高齢者と呼ぶらしい。そこでコロナワクチンも65歳として若い方よりも早く接種させていただいたし、頼んでもいないのに役所から介護保険証も送られてきた。
けれど、物理的な時間の流れで区切った利用とは別に、ベルクソン流の「生の流れ」がどこか内部に眠っている。いくつものエピソードを通して、村松さんが語りたかったことも、生の流れが垣間見える姿じゃなかったのか?と思う。