三浦裕子「能や狂言の音楽入門」を読む3
間の取り方について。「教えられる間と教えられない魔」という歌舞伎役者九代目市川団十郎の言葉が引用される。間は客観的に測れるが、魔は聴き手には予想不能とも言えるだろう。どうやら秘伝らしい。
西洋音楽では音楽をコントロールするテンポ感があるが、能楽では、謡がリードする、笛がリードする、謡が入らない、それぞれの場合で、拍から自由になったり、拍節感を保って音楽が進んだりする。実に変幻自在な音楽なのだ。さらに複数のリズムが共存したり、拍をわざとずらすなどの技があるという。ポリリズムは元々日本にあったのだ。
最後に、なぜ、このようなある意味ミステリアスな主題と複雑な構造を持つ能という表現が室町時代前期に出現したのか? 大陸のコピーをスタンダードとしてスタートした天平文化から、徐々に姿形を変え、毎度お馴染みのウケる芸能ではつまらなくなってきた頃合いが室町前期でして、モノマネ主体の猿楽が飛躍する瞬間に世阿弥が現れたのではなかろうか? ところが能は武家の式典芸術=クラシックとなり、大衆から少しずつ離れてしまう。やがて誰もがわかる=大衆に受け入れられることが前提の歌舞伎・文楽の江戸文化に移行していくのだ。
この辺りに「わかりやすさ、共有しやすさ」と「それだけじゃダメじゃん!」とのせめぎ合いがあるように私は感じています。