オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび422

若松英輔「詩と出会う、詩と生きる」を読む1

 


著者は平易な言葉を用いて、まるで先生が生徒に諭すようにとてつもなく深く広い世界を案内していく。岡倉天心中原中也紀貫之正岡子規と辿っていくが、各章が一つの授業のように伝えたい内容が、明確な輪郭をもっていることは読者にとってありがたい。

そして妻の死と向き合った吉野秀雄の短歌、妹の死をきっかけに変化していく宮沢賢治の詩に至る。私も身内を見送っている。時間がドロドロとして一向に前に進まない! 水面が見えない底なしの泥沼に吸い込まれ溺れていくような・・あの感覚は今も忘れられない。短歌や詩は書いていないけれども、その後の私はどこか見えない世界からの自分を支えてくれる存在を感じていた吉野秀雄に近いかもしれない。

続く八木重吉の章で、ある神父さんの次のような言葉が出てくる。「願いは私たちの思いを大いなるものに届けようとすることですが、祈りは神の無言の声を聞くこと、神の思いを受け止めようとすること」。私は「歌に願いと祈りをこめて」と題したプログラム原稿を書いたことがあるけど、その時には、そして今でさえ、神父さんのように意味の違いについて理解したことはなかった。祈りとは己をリセットして何かを受け止めようとする行為だったのだ。そして八木重吉の詩には、彼の祈りが言葉となって結晶している。