柄谷行人「倫理21」を読む1
責任とは何か、倫理とは何か、そこが本書の出発点です。
はじめに、本書における言葉の定義づけについて。人は結局は群れる動物なのだから共同体的な規範をどこかで必要としているはずと考える北野武の立ち位置とは別に、幸せであることが倫理として大切と捉える功利主義的な立ち位置があることを紹介した上で、カントが「自由であれ」という命令に従うことを自由と考えていたことを紹介しています。
本居宣長は、元々日本に道徳などないし、その必要もないと言ったそうです。その代わり世間様という得体の知れない規制が人々を拘束している。
責任を問うことと原因を認識することは別物であると筆者は強調する。子どもの過ちについて親が責任を感じるケースについて論じているのだが、何かの原因が自然科学のように予定された結果を生むということは、人間の発達においてはほとんどない。だからこそ教育や子育てのハウツーは眉唾ものなのだ。あくまでも親は親、子は子であって、互いに自由であれと認め合う関係のはずが、世間様を気にする日本社会では、大きな事件に遭遇すると困難に陥ってしまう。例えば、いじめ。フロイトが死の欲動として説くように、子どもは攻撃性をコントロールできない。いかに自由で平和主義的な教育環境を整えても残る。いじめた者にもちろん責任はある。これは倫理の問題。ただその原因を探る認識は、別物だということでしょう。