オヤジのあくび

タケさんの気楽に行こうよ道草人生の続編です。

オヤジのあくび445

柳原良平柳原良平のわが人生」を読む2

 


前回は肝心の本の中身にふれていませんでした。幼少期や寿屋=サントリー開高健山口瞳とタッグを組んで大活躍した時代は飛ばして、著者が横浜に移り住んだ昭和39年から。

前回、著者の家の前を通勤していた話をしたけれど、山手の中腹に位置しているお宅から港は見えない。正確に言えば購入当時は見えていたのである。その後レイトンハウス以外目立った高層ビルがなかった山下町に次々と高層ビルが立ち並び、湊を見下ろす視界はますます閉ざされてしまった。

マリンタワーにあった横浜海洋科学博物館が存続の危機に陥った時、著者は「横浜市民と港を結びつける会」を結成して、運動を展開した。その後、日本丸のそばにあるマリタイムミュージアムに移転する。

さらに今やみなとみらい地区の名所になっている帆船日本丸の誘致活動。そもそも著者はみなとみらいの命名者の一人でもある。

著者は関内駅前のセルテ三階「せんたあ画廊」で個展を開いていらした。個展は作品の販売目的もあるのだから、求めやすいサイズにする作家が多いようだけど、氏は個展の時こそ自由自在で普段描かないような大作が描けて楽しいとおっしゃる。自由で柔軟なお人柄がわかるというもの。

本書の最後の方に小学校の先生の言葉で「お風呂に入って自分の方へお湯を掻き寄せようとすると逃げてしまうが、外に掻き出そうとするとお湯が寄ってくる。人のために尽くせば自分も幸せになる」という言葉が出てくる。氏の活動の原点にある言葉かもしれない。

柳原良平さんと言えば、グラスを片手にしたアンクルトリスが有名だが、アンクルが初老の設定なのは、長年勤めてきて少しくらい飲んでいてもご苦労様と評されそうな年齢設定なのだそうだ。ということはボクもアンクルトリスの飲み友達になれる年頃なのかな? 柳原良平さんに献杯