白石仁章「戦争と諜報外交」を読む1
日本が世界に伍して、大国としてのパフォーマンスを求められた場面として、本書では第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議に「五大国」の一つとして列席した場面を挙げている。アメリカやイギリスがいくつものホテルを借り切って数百人規模のスタッフで対応しているのひ比して、日本はそこまでの準備や情報収集ができず、サイレントパートナーと揶揄されたのだ。日本にとって苦い大国デビューでありました。その結果できたのが、外務省革新綱領。情報部が新設されることになる。その部長であり、その後日米関係が日増しに険悪になっていく時期に駐米大使を務めていた外交官が、本書に登場する一人目の外交官斎藤博。同僚だったこともある吉田茂が「口八丁手八丁と評した行動力は半端ではなく、戦争に訴えなければならないような問題は日米間にはないとアメリカ国民に訴え続けたのだ。そして太平洋の平和と安定を図る日米共同宣言を構想したのだ。この辺りは関東軍・陸軍が大陸を侵略している現実と矛盾しており、斎藤が国内事情に疎いと指摘される所以だ。折から揚子江を航行中のアメリカ船パナイ号を日本海軍の飛行機が攻撃して沈めてしまうという事件が起きる。もちろん中立国の船を無警告で沈めたのだから弁解の余地はない。この最悪の事態に際して、斎藤はラジオを通じアメリカ国民に対して謝罪する。大使として八面六臂の活躍を続けながら彼に残された時間は限られていた。1939年ワシントンで永眠。遺骨はアメリカ軍の巡洋艦で日本に礼送された。
外交官としての彼が何を願って行動していたか? それだけはよくわかる。ロンドンの軍縮会議随員としての活躍以降、軍備の縮小、平和友好の実現は一貫した信念だったのだ。