山田耕筰「はるかなり青春のしらべ」を読む2
音楽家には、とりわけ作曲家、指揮者、ピアニストには文章が達者な人が多い。作曲家や指揮者は自分自身でお客様へ音を発していない鬱憤がガス抜き的に文章に転化されるのだろうか? 山田耕筰も同様で、軽妙且つ抱腹絶倒な文で読者を喜ばせてくれる。
さて芸大時代。予科を首席で卒業した山田耕筰は、声楽科に入る。当時の芸大にまだ作曲科はなかったのだ。理由は教授がいなかったこと。副科はトランペットだったが、なかなか凄まじい音だったらしい。やむなくフルート経由でチェロに転じる。怪しげな西洋人の偽名を用いて、作曲を始めてアンサンブルするが、彼の曲に批判を加える人が周囲にいない。このままでは成長できないと感じ始めたのも無理はない。岩崎男爵の援助を受けて、山田耕筰はドイツへ留学する。
ホホ・シューレ=王立音楽院を受験し、47人中3人しか受からない難関を突破する。文中にこんな言葉が出てくる「楽理に縛られていては一楽節もものにならない。しかし覚えるということは割りと容易だが、一旦覚えたことを忘れるという事は、最も困難なことだ。」結局は他の表現同様に、作曲も基礎基本という体力をベースに、どれだけ自由に飛翔できるか? ということなのかもしれない。